2021年12月21日から2022年3月6日にかけて、岐阜県美術館にてIAMAS ARTIST FILE #07「ウィデオー/からだと情報」展が開催された。それに伴い、展示期間中の2022年2月23日にはオンラインアーティストトークイベントが実施され、出品作家である木村悟之、萩原健一、堀井哲史の三名による作品紹介の様子が配信された。本展のタイトルから推察されるように、三名はいずれも映像の制作を中心として活動している芸術家である。ただし、本展の企画者の一人であり、作品選定および展示構成を担当した映像作家の前田真二郎(bet36体育在线-体育投注官网@)は、三名のおのおのが「異なるタイプ」の映像表現に属しているということに注意を促している。そうであるなら、もろもろの差異はいかにして彼らの映像表現を区別し、特徴づけているのだろうか。こうした問いについて思考するために、以下では、このイベントのなかで異なるタイプの作家たちがそれぞれ自らの作品について何を述べていたかを確認する。
KIMURA Noriyuki
『軌跡映画』
木村はまず、映像作品『軌跡映画』シリーズと映像インスタレーション《飛行物体》との共通点を示すというところから自身のプレゼンテーションを開始する。共通点の一つは「ルールに基づいて制作された作品であること」、もう一つは「ルールの設定にあたって、GPSの数値を用いること」である。ルールに対してGPSの数値がどのように介入するか、その手法を起点としておのおのの作品は動きはじめることになる。
『軌跡映画』は、木村によって設定された以下の五つのルールに従ってつくられた映像作品である。
? 撮影は、0時から24時までの24時間かけて行われる。
? 撮影は、半径3キロメートルの円周を36等分した地点で進行方向に向かって行われる。
? 撮影者は、40分ごとに20秒ずつ、36カットを録画する。
? 撮影者は、辿られる円周の90度ごとの地点でねじ打ちを行う。
? 撮影者は、事前に地図を見てはならず、数値のみをたよりに移動する。
撮影に先立ち、円の場所が任意に定められ、円周上には36の撮影地点がおよそ等間隔で置かれる。撮影者には、「撮影地点」を指し示すものとして、決定された緯度と経度の数値(が記載された表)のみが与えられ、「自身の現在位置」を把握するためのものとしては、携帯型GPS受信機に表示される即時的な緯度と経度の数値のみが与えられる。リアルタイムに推移するこうした諸数値は、録画された映像そして撮影者によって表に書き記されたものとともに、『軌跡映画』制作のための直接的な素材となっている。撮影者は、予定された数値と現行的な数値という二つの情報の連関のなかで、録画をしたりねじ打ちをしたりメモをとったりしながら、半径3キロメートルの円周上を24時間かけて巡り歩く。
GPS、ゆらぎ、ねじ打ち
『軌跡映画』が企画された2004年の段階では、GPSという言葉はまだ一般的ではなかったと木村は述べている。GPS(全地球測位システム)とは、地上のGPS受信機が、上空約20000キロメートルの軌道上を周回する約30基のGPS衛星から発信される信号のいくつかを受け取り、それらから自らの位置を割り出すという仕組みである。
木村はアーティストトークの視聴者に16個の円を提示する。しかし実際のところ、これら16個の図形のなかには正円が一つも存在せず、もろもろの線は一定の曲率を逸脱し、自発的なゆらぎを露呈しているばかりか、そのなかのいくつかの線は、図形を閉じることなく終えられている。これらの図形の一つ一つは、『軌跡映画』の各作品の制作において携帯型GPS受信機に蓄えられたもろもろの漸次的な位置データを座標上に点として配置し、それらを時系列に結びつけて描かれたものである。16という数は、これまでに制作された『軌跡映画』の作品数である(図形が閉じられていないものも完成作品と見なされ、この数のなかに含まれている)。撮影が中断されず、36回の録画が全て遂行されるなら、一編の『軌跡映画』は13分間の作品として提出されることになる。
木村の定めたルールの一つに、中心角90度ごとに円弧の上で「ねじ打ち」をおこなうというものがある。このルールを採用した理由として、木村は「辿った痕跡を現実空間に残す」ということを挙げている。今回、木村は『軌跡映画1』制作時の2004年に打ち込んだねじを回収し、それらをガラスの瓶に入れ、本展の出品作品《「軌跡映画1」アーカイブ》の一部として展示している。
「ホムツワケ伝承」
新作となる映像インスタレーション《飛行物体》は、木村が岐阜県揖斐郡の花長上神社の由来として伝わる説話と出会ったことをきっかけに構想されたものである。木村は、「ホムツワケ伝承」と呼ばれているこの説話の概略を以下のように述べている。
垂仁天皇を父にもつホムツワケ皇子は成長しても言葉を話さない。垂仁天皇は、天皇自身が過去に犯した行為によって、アマノミカツ姫が成仏できずホムツワケに取りついているということがその理由であるらしいと知る。アマノミカツの霊魂の場所を探るべく、占い師が、花長上神社の裏山である花鹿山の頂上に登り、榊で髪飾り(かずら)を作り、神の意志をうかがう。すると、髪飾りは飛んでいって、現在の一宮市の一角に落ちる。その地点を祀ると、ホムツワケは言葉を話すことができるようになった。髪飾りが落ちた場所は、この説話にちなみ、現在では「阿豆良(あずら)」と呼ばれている。
「ホムツワケ伝承」には様々な異本が存在するが、オリジナルの書は失われている。それらの異本の内容に大まかな共通点はあるものの、物語の細部はいずれも異なっており、ホムツワケの読みや表記も時代や環境に従って変化している(起源的な全体が存在しないということについては、プレイするたびに異なるマップが新たに生成されるというタイプのコンピュータRPG『ローグ』が、映像のなかで参照されている)。
《飛行物体》
《飛行物体》は、投影される映像とガラスケースなどに置かれた資料によって構成されている。映像パートは、序盤で「ホムツワケ伝承」を描写し、中盤でこの物語を整理?解釈したうえでルールを抽出、終盤でこのルールに基づいてパフォーマンスをおこなうという順に進行する。
「ホムツワケ伝承」に関して、木村は特に「飛ぶもの」としての髪飾りに注目し、飛ぶものが描く軌跡こそが、父の過去の行為と子の現在の沈黙を関係させる因果的な系列を表現しているのだと解釈している。ここで木村は、過去が現在に跳ね返ってくるような試みを構想している。そこから、あらゆる因果を捉える上位の存在としての神の視点が、地球を望む宇宙からの視点に重ねられることによって、(髪飾りが霊魂の位置を知らせていたように)上空から地上に数値を伝えるGPSが要請される。映像終盤のパフォーマンスのために木村が抽出したルールは以下の七つである。
1. パフォーマンスは、パフォーマーとナビゲーターによって行われる。ナビゲーターは人間でも機械でも構わない。
2. パフォーマーは、花鹿山の頂上からパフォーマンスを開始すること。
3. パフォーマーの位置情報はGPSトラッカーによって記録され、ナビゲーターへ送信される。
4. 4分後、その同じ位置情報がナビゲーターによって、パフォーマーの向かうべき新たな目的地として設定される。
5. パフォーマーは新たな目的地へ向かって最短距離で移動すること。
6. 2から5の手順を36回繰り返し、144分間でパフォーマンスは終了する。
7. パフォーマーには過去の足跡を追うことを伝えない。ただ、「飛ぶもの」を追っている、とだけ伝える。
『軌跡映画』と同様に、パフォーマーは、目標地点へ移動するために、GPS受信機に示された位置情報に従うことになる。しかし『軌跡映画』とは異なり、目標地点は予め定められているのではなく、パフォーマンス遂行時、4分ごとにパフォーマーに伝えられる。実際のところ、新たな目標地点は、この位置情報を受け取る4分前にGPS受信機が示していた位置である。つまり、パフォーマーは自らの過去の歩みを辿ることになるのだが、パフォーマー自身にはそのことは知らされていない。
ただし、4分前の滞在地点に向かうというルールから推察すると、パフォーマーが終始同じ地点にとどまり続けるという事態が想像される。今回のパフォーマンスのなかでは、懐中電灯がパフォーマーの手から滑り落ち、それを取りに行くといった想定外のことが起きていたようであるが、木村は、それとは異なるより根本的な偶発性をこのパフォーマンスのなかに見ている。それは、GPSによる測位と実際の位置のずれであり、さらにはもろもろのずれの大きさが一定ではないということである。100メートル以上の誤差も珍しいことではなく、このような不確定性によってパフォーマーはその軌跡を多様化させることになる(このことは、『軌跡映画』における軌跡が歪んでいる理由の一つにもなっている)。「ホムツワケ伝承」と同様に、《飛行物体》には予定されたオリジナルのルートは存在しない。
衛星からの視点
《飛行物体》の資料パートのなかには、パフォーマンス中の軌跡が記入された縮尺25000分の1の地図が含まれている。地図上の軌跡は、肉眼では辿ることができないほどの大きさであり、地図の傍らには虫眼鏡が設えられている。木村は、この視点を、20000キロメートル上空のGPS衛星からの視点になぞらえ、人間が実際にそこを巡り歩くときの感じられ方と比較し、二つの場合の関係を「神と人間の関係」に類比させている。
木村は、《軌跡映画》と《飛行物体》を並べて展示することによって、現代における「ウィデオー(わたしは見る)」の再解釈を試みたと述べている。「ぼくにとってそれは、目に映る世界を、一旦衛星からの位置情報を介することで把握しなおそうとする試みでした」。
HAGIHARA Kenichi
《TRAIN》
本展では、萩原の作品として、《TRAIN》、《SUGATAMI》、《フレット?アニメーション?ワークショップ》の三つがクレジットされている。
展示風景:2画面の《TRAIN》(左)と3画面の《SUGATAMI》(右)。
《TRAIN》は、二台の縦型モニターで構成されている。二つの画面はいずれもマスクを着用した高校生の顔を映し出しており、フレーム内には同時にその指の動きが捉えられている。高校生たちは、タブレット端末の画面に向かって「フリック入力」と呼ばれる方式で文字を入力しており、彼らの姿はその画面越しに記録されている。一つのキーに対して五つの文字が割り当てられるフリック入力方式は、一つの子音に対して五つの母音が組み合わせられる日本語と相性が良く、その利用率が過半数を超えているのは世界の国々のなかでも日本だけであると言われている。入力者は、タッチディスプレイのうえで指を上下左右に動かしながら文字を入力する。この非常に特徴的な人間の動作が、10年あるいは100年という歴史の推移のなかでどのようなものとして見えてくるのか、これを確認することがこの作品を制作する動機であったと萩原は述べている。
さらに萩原は、この作品の目的を以下のように説明している。「あるメディアに対して最適化されてゆく身体の振る舞い」を記録すること、そして「ネットワーク越しに同じ動作が反復されてゆく様子」を動画ポートレートとして残すこと。
萩原によると、本作のタイトルである「トレイン」という語は、スキーにおける初歩的な練習方法の名称から採られている。その練習方法は、先頭のスキーヤーの後ろを、後続のスキーヤーたちが列車のように連なって滑走するというものである。trainの語源となる語は「引きずる」を意味し、先導者に従わせるというニュアンスが転じて、英語においては「列車」や「訓練する」という意味で用いられるようになったのだと思われる。
この作品の制作は2018年に開始された。ディスプレイ越しに高校生の姿を捉えるため、萩原は、ディスプレイのタッチパネル部分を分離させ、そこにハーフミラーを組み込んだ撮影スタジオを制作したのだと言う。これは、入力者からはディスプレイ上に文字盤だけが見え、ディスプレイの向こう側に設置されたカメラは見えないのだが、カメラ側からは文字盤を写すことなく入力者の姿だけを捉えることができるというものである。多くのフッテージのなかから、同じ指の動きが見られる(つまり同じ文字を入力している)二つの映像が選び出され、指の動きが同期するように二台のモニターに映し出される。萩原は、対になるカットを何パターンも連ね、20分間の映像として提出している。
《SUGATAMI》
《SUGATAMI》は、《TRAIN》の約10年前、萩原が岐阜県大垣市に在住していたときに制作された映像作品である。《TRAIN》と同様に、複数の縦型モニターで構成され、被写体にはダンスをする人物が選ばれている。この人物は、夜にビルやショッピングモールなどのガラスの前で練習しているストリートダンサーである。萩原は、週に一度、約三ヶ月のあいだ、そうしたダンサーたちが同じ曲で練習している様子を撮影したと話している。
《SUGATAMI》は、2008年の発表時には二画面で構成されていたが、今回の展示に際して、萩原は当時のデータを再編集し、三画面で構成したものを出品している。それぞれの画面には「異なる」時間に「同じ」曲で踊る「同じ」ダンサーが映し出される。
フレット?アニメーションはいかにして構想されたか
《フレット?アニメーション?ワークショップ》は、2021年10月から12月にかけて開催された同名のワークショップに関する各種資料を展示したものである。このプレゼンテーションのなかでは、このワークショップそれ自体の説明がなされている。その名称のなかの「フレット」という語は、一般的には、ギターなどの楽器において音程を区切り、音高を安定させ、振動の減衰を抑えるために指板に取り付けられる金属の部品を指している。萩原は、「フレット?アニメーション」を、「時間軸に沿って並ぶフレームを一枚の平面から切り出して表示していくアニメーション方式」であると説明する。さらに、「体験者、制作者は、ディスプレイに表示された結果を確認しながら、平面上に置かれた物やイメージを変えていく」のだとも述べている。
萩原は、このワークショップにおいて試みられている考え方として、「絵巻物やコミックにおけるような異時同図法とコマ撮りの手法を併せ持った発想」を挙げている。ここで、アーティストトークの視聴者には、一つの板の上に四つのはさみが置かれ、板の横に置かれたディスプレイのなかで一つのはさみが動いている様子が提示される。体験者が板の上のはさみを少し開いたり、置く角度を変えたりすると、その都度ディスプレイのなかのはさみの動きが変化する。萩原は、こうした装置を開発したのは、タイミングやモーションの変化を直感的に理解できるようにしたかったためであると話している。装置におけるソフトウェアの開発は、美術史や思想史を専門とする研究者、林文洲が手がけている。
萩原は、このワークショップを構想したきっかけを以下のように述べている。当初、萩原と林は、動くグラフィックや文字が表示される電光掲示板(萩原はこれを「よく飲み屋街とか地方都市の道路沿いに立っているお店の看板」あるいは「〔一般に言われる〕デジタルサイネージではないデジタルなサイネージ」と呼んでいる)を部分的に切り出してアニメーションを作ることを可能とするような撮影装置の開発に着手していた。その際、このシステムで映えるようなアニメーションをテンプレートとして用意するために、作画が得意な学生にそうしたものを作るよう依頼したところ、作業を開始した彼らはほどなくして一様に戸惑いをあらわにしたという。萩原は、こうした事態に立ち会い、彼らにとって難しく感じられた「平面とモーションを両立するような一枚絵」のなかに、豊穣な「想像力をかき立てるポイント」があるのではないかと思った、と当時を振り返っている。
《フレット?アニメーション?ワークショップ》
ワークショップの所要時間は約三時間。はじめに装置の解説とアニメーションの簡易的なレクチャーをおこない、「まわる」、「はじく」、「ふえる」のような簡単なテーマをもとにアニメーション制作に触れてもらう。次に、この環境を使用し、自由におのおのの作品を作ってもらう。最後に鑑賞会をおこない、このワークショップを振り返る。
回数を重ねていくうちに、ワークショップ自体がどのように変更され、自身の感じ方がどのように変化したか、以下のように萩原は回想している。最初のワークショップでは、参加者に作ってもらうのは10分の作品だったが、回を追うごとにその時間は短くなっていった。この制作環境自体の適性も相まって、構想を固めたうえで作業を開始するよりも、参加者たちが失敗を前提とし、試行錯誤を繰り返しながら制作が進められていくように、作品の時間は毎回修正され、現在ではほとんどが2分以内に落ち着いている。このような時間の変化に並行して、さまざまな動き方についてのディスカッションがおこなわれていたのだと萩原は付け加えている。
萩原は、開催期間中に試みられた、さまざまな発展的なアイデアのいくつかをここで紹介している。例えば、空間の天井から部屋全体を映し出し、共同で大きなアニメーションを作るというもの、四人が映像合成用の全身タイツを着用し、踊りの動きを作るというものなどである。
本展では、これらの取り組みの記録映像およびワークショップのなかで制作された作品が上映されるとともに、ワークショップで実際に使用された体験装置が展示された。このワークショップは始まったばかりであり、今後の可能性を評価、点検し、少しずつ更新していきたいと萩原は語っている。
展示風景:写真や映像による記録とともに、参加者の成果物であるアニメーションが展示され、来場者たちはフレット?アニメーション?ワークショップのために開発された装置を試すことができた。
質疑のなかで、堀井は、フレット?アニメーションが縦長の画面で制作されている意図を尋ねる。萩原は、フレット?アニメーションは別の形、それどころか複雑な形であっても構わないと述べ、「動くものを16:9に収めないところからスタートさせたい」という絶対的な条件を明かす。こうした条件は、「粘土で何かを作るようなかたちでの映像制作」を前提としている。そのうえで、縦長の画面である理由として、ポスターサイズを縦に短冊状に切ったときの形状が使用可能な縦型のモニターの形状と合致したということ、そして展示会場に十分な天井高があったということなどの状況要因を挙げている。
HORII Satoshi
《Light and Shadow》
はじめに堀井は、立ち上げ時から参加しているライゾマティクスにおける自身の役割について、「広告やエンターテインメントを対象としたクライアントワークや、自分たちで自主的に企画したダンスや展示などのアート作品において、主にリアルタイム性の高い映像や、さまざまなデータを視覚化するなど、ヴィジュアルに関わるパートを担当している」と説明する。
本展で堀井が出品したのは、《Light and Shadow》、《Endless Imaginary》、《Behind the Scenes / Left》、《Behind the Scenes / Right》の4作品。これらには、すべて同じモーションキャプチャーデータ、そしてすべて同じ音楽が使用されている。
《Light and Shadow》は、2019年にワシントンD.C.のARTECHOUSEで開催された「Lucid Motion」展に出品された映像作品である。「Lucid Motion」展には、他にも「イメージセンシングと機械学習を絡めた作品や、実際の物とバーチャルなダンサーとの共演が見られるAR作品など」が展示されていた。
《Light and Shadow》において、映像は左右の長さ約10メートルの壁面に投影される。ライゾマティクスは、三人組ユニットであるPerfumeの振り付けなどで知られるMIKIKO、およびそのダンスカンパニーであるELEVENPLAYとの共同作業を長年にわたって続けており、《Light and Shadow》は「その強みを生かした作品」であると堀井は話している。
堀井は、《Light and Shadow》において試みられたモーションキャプチャーデータに対する自身のアプローチを以下のように紹介している。モーションキャプチャーは、本来「CGでのリアルな人間表現を担う技術」であり、映画制作などにおいて非常に成熟したものとなっている。しかし、「モーションキャプチャーデータを素材として扱うことで、何か新しく見いだせるものがあるのではないか」という着想をもとに、この作品では、データそれ自体によって直接的に表象されるものが何を語りうるかについての探究がなされている。そして、このようなモーションキャプチャーデータの使用法は、そのかたちを少しずつ変えながら、本展に出品されているすべての作品に共通して用いられている。《Light and Shadow》における堀井の手法は、主に以下のようなものである。
? データが表象するもの「それ自体をクローズアップし、観察する」。
? それを「誇張する」。
? 軌跡のなかに美しさを見いだす。
? 「動きが空間に与える影響をシミュレーションする」。
? 「モーションキャプチャーデータのジョイント感あるいはつながりを変化させる」。
? 単純な幾何学図形を抽出する。
美しさについて
堀井はこのプレゼンテーションのなかで、「美しさ」という言葉を頻繁に口にしている。例えば、木村への質疑のなかで、堀井は「美しく書こうと思って書いた線の動き(幾何学的なかたちや黄金比などが念頭に置かれている)」と「人間が動いて描かれた線(円状の歪んだ図形)を美しいと思う感覚」は「どちらが先か」と問い、木村にとっては後者のほうが美しさの基準になっているのではないかと述べている。議論が尽くされているわけではないため、ここでは以下を指摘するのみにとどめるが、上記のもろもろの手法の説明のなかで、堀井は、軌跡のなかに美しさを「見いだす」という言葉を選択するとともに、軌跡から「幾何学的なかたち」を抽出するという試みにも触れている。
制作プロセスについて
続いて、《Light and Shadow》制作のプロセスが説明される。この作品では、カメラの移動やカットの編集のない定点視点の映像が採用されているが、これは、壁の先を眺めるような形態としての屏風絵や襖絵に由来するものである。五つのセグメントからなる一つの静的な空間を設定し、そのなかで動的な変化を見せていくということがこの作品の出発点となっている。次に、ダンサーに対してモーションキャプチャーをおこない、作品の素材となるデータを入手し、作品全体の雰囲気の方向性を固める。こうした作業を経た後に、モーションキャプチャーデータに対してあらゆる種類の実験的な操作が加えられ、それとともにオーディオデータが視覚的に表現される。堀井は、そうした多種多様な実験のいくつかについて、以下のように語っている。
? ダンサーの身体が拡張されるかのように、無数の点の軌跡の残存によって形成される無数の線。
? 稠密に立てられたもろもろの棒のあいだを透明人間が歩くことによってそれらの棒が動く様子。ここでは、棒の動きによって見えないものの存在が感じられると同時に、棒そのものの自発性という問題も浮かび上がってくる。棒の代わりに紐を用いるパターンも試みられた。
? ダンサーの手に置かれた光源。主体としての身体と主体的な光源との交錯が見られる。堀井はここでも、光によってできる影に「美しさ」が見いだされるのではないかと述べている。堀井はさらに、ダンサーの動きと、ダンサーの意図からは逸脱した物理的な要素(ダンサーは手に光源が置かれるとは思っていない)、これらのあいだに想定される偶発性のなかに、何らかの発生を見ようとしている。
? ダンサーの周囲の空気の流れの可視化。さらにはこの流れのよりダイナミックな表現。分子的な接触作用がつぶさに確認される。
? データをいくつかの部分に限定して表示させ、それを時間軸で並べることによって浮かび上がる形状。
? 一連の動きのなかで単純な幾何学図形を描く断片的な持続の発見。わたしたちが行為するこの実在的な領域を、不意に本質的なものが横断していく、そのような場面が捉えられている。
《Endless Imaginary》
《Endless Imaginary》は、《Light and Shadow》の2年後に制作された、同じく定点視点の映像作品である。ただし、前作のように垂直面にのみ映像が投影されるのではなく、この作品では水平面である床にも同様に投影される。つまり、《Endless Imaginary》の映像は、視線に対して異なる角度を形成する二つの面に投影されることになる。しかし、ある特定の位置から見ると二つの面が「一つのパースペクティブに集約」されて見えるように二つの映像は調整されており、それゆえ作品は一種のアナモルフォーズとして提出されている。
《Behind the Scenes》
《Behind the Scenes / Left》と《Behind the Scenes / Right》は、本展のために制作された映像作品であり、会場では《Endless Imaginary》を挟み込むように配置されている。同じ高さに並べられた三つの作品は、それぞれ同じサイズのモニターで上映されている。
《Behind the Scenes》は、《Light and Shadow》および《Endless Imaginary》とは異なり、定点視点で制作された作品ではない。それゆえ堀井は、定点視点では採用するに至らなかったもろもろの素材を今回再び検討する機会をもつことになる。この作品の画面は、時間の進行に即して変化する元データ(モーションキャプチャーデータおよびオーディオデータ)を表示するいくつもの小さなウインドウと、それらが編集され、表現された映像を表示する一つの大きなウインドウによって構成されている。カメラの移動とカットの編集の導入により、他の二作品のなかでは実現されなかった、あるいは構想さえされなかったもろもろの要素が取り入れられ、そこから「おもしろい効果が見られるものを集めて編集した」と堀井は語っている。
単純な幾何学図形を出現させる軌跡が他の二作品とは異なる視点から取り出されているということ、モーションキャプチャーとは別で撮影された実写映像がモーションキャプチャーデータに重ねられているということ、元データに対して面対称に配置されたコピーとなるダンサーの眼がカメラとなってその視界を映し出すということ、これらはいずれも《Behind the Scenes》に特有の試みである。三つ目の要素について、堀井は、ダンサーの視線が自らの手に向けられているという発見を通して、視線を向ける対象の選択が演技の一要素であるように感じられると述べている。このアーティストトークの司会を務めた学芸員の西山恒彦(岐阜県美術館)は、オリジナルのダンサーとコピーのダンサーの相互的な吸収作用が、定点視点に備わる没入効果と交差しているという事態を示唆している。
質疑のなかで、木村は、モーションキャプチャーのために使用するカメラのある種の誤用の可能性について尋ねている。これについて堀井は、フォトグラメトリーの例を挙げながら、仕組みそれ自体の可能性について言及している。フォトグラメトリーは、一つの対象をさまざまな方向から捉えることができるように多数のカメラを設置し、すべてのカメラによって撮影された素材を構成し、一般的にはそこから3Dモデルを生成させるという手法であるが、堀井の関心は、そのような目的が差し引かれたものとしてのフォトグラメトリーの仕組みそれ自体へと向けられている。
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