INTERVIEW 006 【前編】
GRADUATE
島影圭佑
株式会社オトングラス代表取締役
「スペキュラティヴ?デザインを、いかに社会的にインストールするか」がテーマ
文字を読むことが困難な人のために開発された眼鏡型デバイス『OTON GLASS』。普通の眼鏡と同様に装着して、読みたい文字を撮影すると、文字を音声化して聞かせてくれます。
大学在学中に『OTON GLASS』の研究開発を始め、現在は株式会社オトングラスの代表として製品化を進める島影圭佑さんですが、IAMAS では全く毛色の異なるスペキュラティヴ?デザインのプロジェクトに取り組みました。なぜその変化が生まれたのか、主査を務めた赤羽亨准教授が鋭く切り込みました。
公開指導の様相を帯びた二人の対談を、前後篇の2 回に分けてたっぷりお届けします。
旧校舎を知らない“IAMAS新世代”
赤羽:島影君の経歴を振り返りながら話を始めていきたいと思うのですが、IAMASに入学する前は首都大学東京のインダストリアルアートコースでどのようなことを勉強していたのですか。
島影:僕が入学した当時のインダストリアルコースは、プロダクトデザイン、メディアアート、アートマネジメントの3つのコアがあり、その中で僕はプロダクトデザインの研究室に所属していました。
赤羽:プロダクトデザイナーを目指していたということですか。
島影:そうですね、当時は。スタイロフォームを削ったりしていました。同級生のほとんどはメーカーでカーデザイナーやプロダクトデザイナーをしています。僕もメーカーでのインターンを経験しています。
赤羽:その中で、なぜ急にIAMASという選択肢が出てきたのですか。
島影:そのインターンで金原(佑樹)さんと一緒になって、そこで初めてIAMASの存在を知りました。僕はIAMASをメディアアートの学校じゃなくて、普通のデザインスクールとして見ていたんですよね。
赤羽:それはかなり新世代かもしれない。
島影:赤羽さんや(小林)茂さんたちの「ガング(玩具)プロジェクト」もそうですが、デザインのメソドロジーから自分たちで作り、最終的に高い強度を持った作品として作り込む。インタラクションからスタイリングまで、ユーザーが体験する重要な要素が総合的に作り込まれたモノでした。その総合的なモノの作り込みに魅了されて、IAMASで学びたいと考えました。
入学審査の時に、「首都大にもインタラクション系の研究室があるから、首都大でいいんじゃないの」と言われましたが、当時の首都大はデザインのメソドロジーはプロダクトデザインのコアで、インタラクションはメディアアートのコアでそれぞれ発展させている印象で、まだIAMASのようにそれらを統合するような体制ではなかったんですよね。
赤羽:2014年に入学したということは、領家町の校舎には通ってないんだよね。
島影:旧校舎には通ってないですね。
赤羽:なるほど。そこがIAMASにおけるひとつの世代的なラインかもしれないね。
旧校舎に通ったことある人と新校舎しか知らない人。卒業する時点ではあまり変わらないんだけど、スタッフとして帰ってきた時などはカルチャーや人の雰囲気がかなり違う気がします。そこが一本くっきりと分かれるところかなという気がしています。
島影:確かに。そうかもしれないですね。
赤羽:その中でも、デザインの学校だと思って入ってきたっていうのはかなり変わっているよね。
島影:「ガングプロジェクト」で実践したものがちょうど言語化されて、誰でも見られる状態になったのがちょうどその頃で、「IAMASはこういう学校なんだな」と認識してなのか、誤解してなのか(笑)、僕ら以降の世代ではそういう意図で入学した人たちが一定数いると思います。
赤羽:半分は誤解かもしれないね(笑)。
価値観を変えた、スペキュラティヴ?デザインの出会い
赤羽:IAMAS入学した年にオトングラスを設立しているんですよね。
島影:『OTON GLASS』は首都大学の卒業制作として制作しました。
赤羽:卒業制作だったんだ!
島影:そうです。IAMAS入学直後に起業家支援のプログラムに応募して。それが採択されて、会社を立ち上げることになりました。
赤羽:デザインプロセスを学びたいと思って入学して、1年生の時は『OTON GLASS』を続けていたよね。でも、他の先生も僕も「そのまま『OTON GLASS』を続ければいいんじゃないの」とアドバイスをしたにも関わらず、修了研究では『OTON GLASS』から大きく切り替えて、半分ゴリ押しで『日本を思索する』をやったじゃないですか。そこがどうして変わったのか、聞かせてもらえますか。さらに言えば、今はまた『OTON GLASS』に戻っているんだよね。
島影:そうですね、振り戻っていますよね。
『日本を思索する』へのジャンプは、IAMASの2年のときに様々な理由から『OTON GLASS』のプロジェクトが一度頓挫してしまったのがきっかけです。もう一度ゼロから立ち上げ直すという選択肢もあったのですが、IAMASでの残された期間に、今一度自分自身を見つめ直し、自分の身体から全く新しい何かを生み出すことに挑戦したいと思いました。
赤羽:プロジェクトをリセットするために、一度『OTON GLASS』から離れて、別のことに取り組むというのは理解できます。でもその時に明らかに違う種類のことをやろうとしたのがなぜだったのかを知りたいな。
島影:IAMASに入る以前は、僕のデザインの思想にはダン&レイビーが言うところの「Affirmative(肯定的)」な側面しかありませんでした。IAMASでスペキュラティヴ?デザインについて知り、徐々に「Critical(批評的)」なデザインを考えるようになって、実際に自分で実践してみたいという気持ちが醸成されていったのだと思います。それでそういったデザインにも見識がある赤羽さんに「主査をしてほしい」と無理矢理お願いしました。
赤羽:当時、僕は研究テーマを変えることに否定的でした。
今回のインタビューを前に少し僕なりに考えてみたのですが、おそらく島影くんは、クリストファー?フレイリングが言うところの「Research in Art and Design」でも「Research for Art and Design」でもなく、「Research through Art and Design」を実践したかってのではないかと思うに至りました。つまりは、何かを作ることを通して知の具現化をするという方法をとりたかったんだろうなと。
島影:ピュアな興味の対象としてはまさにその通りだと思います。
赤羽:既にビジネスとしてどう考えていくかという段階に差し掛かっていた『OTON GLASS』を題材に「Research through」をするのは難しい。それで思い切って、新たな研究テーマに挑戦したんだろうなと理解したのだけれど、間違っていますか。
島影:『OTON GLASS』でも社会実装の過程での「Research through」は成り立つと考えていますし、今もその視点を持って取り組んでいます。しかし赤羽さんのおっしゃる通り、『OTON GLASS』はそれ以外の要素を多分に含むプロジェクトなので、よりピュアに「Research through」を追求した結果が『日本を思索する』だったのだと思います。今は『日本を思索する』で得た視座を元に、あらためて『OTON GLASS』を見つめ直している最中です。
僕自身、オーグメンテッド?ヒューマン系のプロダクトの専門家なのかといったらそうではない。たまたま対象がそうだっただけで、むしろ『OTON GLASS』によって引き起こされる運動(ムーブメント)に関心があります。『OTON GLASS』を媒体に、様々な人々を巻き込みながら、これが実際に実現されている未来の社会がどうあるべきなのかを思考する共同体を形成し、その共同体と共にプロダクトとそれがある社会を作り上げていく、そのプロセスやメソッドにピュアな興味があります。
赤羽:そうなんだろうなと思っていました。プロダクト自身というよりは、メソッドとかプロセスへの興味が大きいということですよね。
この『日本を思索する』はプロジェクトとして成功したと思いますか。
島影:スタートダッシュは切れたと思います。IAMASという、何をしてもいい実験場でスタートダッシュを切って、これからまだ発展の余白があると感じています。
赤羽:まだこのプロジェクトを続けているの?
島影:続けたいと思っています。以前も、ある展覧会の企画のひとつとして、市民が今の公共や政治について考えられる場として差し込めないかと提案させてもらいました。
この研究はダン&レイビーがイギリスの未来をモビリティで表現した「United Micro Kingdom」という作品が一番のリファレンスになっていますが、彼らとは違う方法でもっと人の想像力を引き出すことができるのではないかと考えています。インストラクションの実行やワークショップの参加など、参加者自身が作り手として「未来の日本」に関与することを通じて、自分たちが実現したい未来を想像したり、今見えている世界観を変えることができたらと思っています。
赤羽:『OTON GLASS』も『日本を思索する』も一般の人から見て、社会的に意味があることというイメージを纏(まと)ってプロジェクトをしているけれど、それは島影君にとってはレトリックであって、それほど重要でない。どちらかというと、それを社会的に置いた時にどう機能しているかを見てみたいというアカデミアからの視点みたいなものがあって、それをうまく活かせるにはそういうのを纏った方がいいだろうっていうことだと思うんです。
お父さんの失読症が開発のきっかけになったということも良い話だとは思いますが、『OTON GLASS』という名前をつけて、みんなで作っていくプロセスをうまくファシリテートして、そこからデザインメソッドや自分なりの研究を汲み取っていこうというのが基本的なスタンスだと思うんですよ。
島影:そうですね。議論されるべきことを、プロジェクトを通じて関与できる形にすることが僕の実践の基本になっています。人々にプロジェクトに関与してもらうためには、対象が社会的に意味のあることであることが必要です。
父の失読症が『OTON GLASS』を始める初期衝動になっている部分は多分にありますし、赤羽さんがおっしゃっているように、ピュアな興味としてはまさにそれらを社会に置いた時にどう機能するか、そのプロセスやメソッドに関心があります。
赤羽:だからスペキュラティヴ?デザインをいかに社会的にインストールするか、メソッドとしてどう作用するのかを知りたくて発表する場を色々探しているんだよね。
島影:すごいですね、赤羽さん。さすが主査!まさにおっしゃるとおりです。
クワクボ(リョウタ)さんがよく言う「ポピュリズムとアカデミズムの交差点」という言葉を借りれば、僕の場合、活動を分かりやすく伝える側面として社会起業家の顔があるんじゃないかと思います。
赤羽:でもポピュリズムとアカデミズムの交差点だと言いながら自分の作品を展示する時に、それを言わないのは違うと思うんですよ。そろそろ言わないという感じもするし、逆にそれをきちんと伝えることができれば、『日本を思索する』みたいなことと『OTON GLASS』が繋がって語れると思うんです。おそらく今は『OTON GLASS』を評価してくれている人に、『日本を思索する』というプロジェクトもやっているんですと積極的に言ってないですよね。
島影:それは僕自身も自覚はしているんです。そのゆがみにずっと苦しみ続けています。
赤羽:ビジネスをやっていきたいならそれでいい。でもビジネスをやりたいとアピールしながら、実際にはアカデミアの側面も同時に持ちたいという思いを持っている。このままいくとしんどいと思うんですよ。僕としては、『OTON GLASS』も『日本を思索する』も同じ平面で語れるようになってほしいなと思っています。
(公開指導から新たなプロジェクトが始動!?後編につづく)