INTERVIEW 025
GRADUATE
三原聡一郎
アーティスト/2006年修了
枠組からはみ出した「その他性」
音、泡、放射線、虹、微生物、苔、気流、そして土。さまざまな物質や現象を「芸術」へと昇華させてきた三原聡一郎さん。アーティストとしての原点、学生時代、土に至った経緯などをIAMASの松井茂准教授が紐解きます。
「怒られるまでやっていい」のがアート
松井:三原くんとは作家として出会っているので、これまであまりIAMASを意識したことはなかったですね。
三原:そうですね。IAMASでは全くかぶってないですね。松井さんがIAMASにいる時に何回か遊びには行きましたけど。
松井:IAMASでは誰が担当教員だったんですか。
三原:入学した当初はネットアートをしていたので、エンジニアリング寄りのスタジオにいて、その後三輪(眞弘)先生のところでお世話になりました。
松井:IAMASに来る前は多摩美で、三上(晴子)さんのところにいたんですよね。
三原:厳密にいうと、久保田(晃弘)さんのところです。学部では音の作品を作ってましたが、卒業制作としてネットアート作品をつくりました。Eメールが世界中のサーバをどのように転送され、最終的にその人に届くのかということに興味があって。ヘッダに記載されている、そのメールが受信サーバに到着するまでに経由したホスト情報やその時刻を可視化するソフトウェアを作ったりしていました。
松井:IAMASへはなぜ行こうと考えたのですか。
三原:多摩美の大学院に進むほかに、東京藝大の先端、IAMASという3つの選択肢がありました。その年は東京藝大の先端とIAMASの受験日が全く同じ日程で、迷うことなくIAMASを選びました(笑)。僕はずっと関東にいたので、大垣ってすごく未知の場所で、しかもIAMASは年齢も幅広く、芸術系じゃない学生もいる。そういう不思議な場所へ行ってみたいなと思ったんです。
松井:三原くんと最初会ったのは、毛利(悠子)さんを通じてだったと思うのですが、毛利さんとの共作「vexations(ヴェクサシオン)」も、IAMASの斉田一樹さん、むぎばやしひろこさんと制作した「moids(モイズ)」※1も、初期の三原くんの作品にはコラボレーションワークという印象があります。「モイズ」を3人で制作することになったのはなぜですか。
三原:IAMASで出会ってすごく驚いたのは、3人とも、例えばアルヴィン?ルシエとかクラフトワークとか、無音のスタンブラッケージ映像のサウンドトラック付ライブなどのすごく特殊なライブに行っていて。実は同じ空間にいたという謎のシンクロニシティが複数回起こっていました。それで3人で何か作れたら面白いんじゃないかと、半分悪ノリみたいな感じで始めました。
松井:IAMASが出会いの場所として機能したのですね。
三原:3人とも音楽家ではないんだけど、音にとても興味があった。そして、いわゆる正攻法な作曲、演奏ではないアプローチに非常に興味を持っていたっていうこともリンクしたきっかけかもしれないです。
松井:他にIAMASで印象に残っていることはありますか。
三原:IAMASは基本的にAでもBでもない。それ以上の何かを探しにいくようなところだという印象がありますね。松井さんはIAMASにどんな印象を持っていますか。
松井:僕が最初にIAMASを知ったのは、三輪さんのオペラ《新しい時代》の初演だったと思います。そこで初めてさかいれいしうさんと話をする機会があって、直後に自分の詩の朗読をお願いしたんです。その時に、さかいさんに肩書きをつけてほしいと頼まれて、僕は「その他」って言ったんですよ。いま振り返ると、僕にとってのIAMASの印象は「その他」だったのだと思います。だから今の三原さんの話もすごく納得しました。
三原:非中心的ということですよね。
松井:「ヴェクサシオン」と「モイズ」の2つの作品も「その他」性を持っていると言えますよね。音楽といえば音楽だけど、普通の意味で音楽ではない。美術館どころか、そもそもアートに対して、三原くんはその制度から外れたところをずっと攻めているように感じています。言い換えると、開拓してるということなんですけどね。
三原:意図してやっているわけではないです。いつもダメって言われてしまいます。
松井:でも、そのダメと言われるような作家性がアートの制度を変えていくというか。いちばんパワーがあって、僕は表現力としてそれこそが三原くんの魅力だと感じています。
ある枠組を一つのステップボードにして次を考えるというか、枠組のさらに外に新たな制度を設計するという作品の作り方をしている。この2つの作品に接して、まずそういう印象を持ちました。
三原:はみだしの話で言えば、影響を受けたのは90年代のメディアアートの人たちですね。ICCに初めて行ったのは「タンジブル?ビット」の時で、以降、ほぼ全ての展示を見ています。展覧会や作家作品名は忘れたのですが、コンピューターのハードディスクの読み込み音でピッチを作って「エリーゼのために」を演奏するとか、アーティストがそういうくだらないことをするためだけにプログラムしていると知って、すごく衝撃を受けました。これまでのエンジニアやプログラマーのテクノロジーの相対し方とは全く違い、それぞれが好奇心のままにテクノロジーを使って好き勝手なことをしている。全員優勝みたいな感じがすごかったんですよ。
あとは多摩美の久保田先生に言われたことのひとつで、「怒られるまでやっていいんだよ」というのがすごくいい言葉だなと心に残っています。何らかの軋轢が発生するまではやっていいんだなと。だから、自分の中のスローガンは「恐れるな」です。
震災をきっかけに生命への関心が高まる
松井:IAMAS卒業後、YCAMに7年間勤め、退職後はかなりの頻度で作品を発表していきますね。
三原:そうですね、って自分で言うのも変ですけど。YCAMの最後の年は今年で絶対辞めると決めて、色々なレジデンスに応募しました。4月から台湾に2ヶ月弱行き、その後ベルリンに3ヶ月行っていて、その後パースのシンバイオティカに10ヶ月ほど滞在しました。それはひとつのじわっとくる転機になりました。
松井:パースに行ったことで、バイオアートへの関心が高まったんですね。
三原:そうですね。東日本大震災をきっかけに、生命への関心が生まれました。生命をメタファーとして作品を作るということではなく、非専門家が実際にどれだけ生命を操作できるのかという点にとても興味があって。でも、シンバイオティカに行って分かったのはバイオアートはとにかくお金がかかるということ。自分の皮膚細胞の培養をしたのですが、1滴1万円の試薬が必要で、個人でこれを続けるのは無理だなと思いました。だから、いまは土の中にいる微生物と苔だけを素材として使っています。
松井:それもまた、制度化された「バイオアート」の枠組の外へ行こうとしている振る舞いに見えます。
分解と再生、そして循環
松井:いま最も興味があるのは土ですか。
三原:そうです。
松井:土に興味を持ったきっかけを聞かせてください。
三原:それも東日本大震災がきっかけですね。東北の方では水道、電気、トイレといった生活のインフラが失われました。その時に報道などで、そうしたものを解決する技術的な方法が紹介されて、興味があったので自分でも色々と調べました。
結論的に言うと、トイレが使えなくなった時に一番楽なのはコンポストなんですね。実際に自分でも体験してみました、家族には言ってなかったんですけど。
松井:言ってなかったんだ(笑)。
三原:どうなるか分からなかったので(笑)。実際に体験してみると、分解すれば匂いもしないし、有機物として自分は地球とつながれるということを理解できました。それ以降、色々なことを考えるきっかけとしてコンポストを続けていますが、そうすると、段々と微生物と会話しているような気持ちになってくるんですね。何を入れたら翌日微生物がすごく喜ぶかとか、彼らの好みが分かってきて、それが面白くて。これをいつか作品化したいなと考えていました。
松井:実際にどのように作品を制作したのですか。
三原:最初の作品は「土の日記(2017, 韓国)」です。韓国と北朝鮮との軍事境界の近くにレジデンス※2に行った時に制作しました。そこは鉄原(チョルウォン)という場所だったんですけど、そこは大地に対して大きな物語しか存在してないような場所だったんですね。鉄原は極寒の場所で、兵役を経験した韓国の男性にとって恐ろしい記憶として刻まれている。朝鮮戦争と第二次大戦でも激戦の地になりました。いまは退役軍人たちが暮らしている100人くらいの村ですが、政治的、軍事的な意味合いが強すぎて、個人の話が全く存在する余地がないような場所なんですね。
僕はそこで村中を歩いて、廃棄された農作物や牛舎で牛糞など、色んな有機物を拾ったり、生活するおじいちゃん、おばあちゃんの寄り合いに行っては、残飯をもらっていました。個人の営み、個人の物語で土を作り直して、有機肥料として、死ではなく生の象徴として大地に還すというプロジェクトを行いました。
実際にやっていることは、コンポスティングという分解と再生が同時に起こっている、何千年も前から人間が行なってきた手段にすぎないのですが、ある文脈の中に置くことによってそれが生きてくる。とても面白いし、実際に興味を示してくれる人も多かったですね。
松井:面白いですね。
三原:純粋に分解をずっと見ているだけでも飽きないんですよ。コロナ禍で、オンラインの実験みたいなことが色々と始まったのを見て、我が家のコンポストの状況をYouTubeLIVEでリアルタイムに配信する作品「土をつくる」を制作しました。
夏場はタイミングによって、意図してない種が発生して大変なことになっているんですけど、それを「ご飯食べながら見てますよ」とか。リピーターも割と多くて、新鮮なリアクション、フィードバックをいただいてます。
松井:コロナ禍で美術館に行けない状況になったことで、作家とオーディエンスが直接コミュニケーションできる芸術体験に立ち戻ることになればいいなと僕は思っているんです。美術館に置いてあるから作品ではなくて、作品はどこにあっても作品だという当たり前のことを忘れている人が多いことに唖然としてるんですよね、僕は。
三原:ウチのコンポストをYouTubeライブで中継して、無期限のオンラインの個展と言い張っているだけですけどね。
コンポストの作品で循環についてずっと考えていると、自分が墓に入るということがすごく矛盾しているように感じてくるんですよ。残された人のための社会的なモニュメントとしては、数百年単位では必要かもしれないんですけど、分解の世界、1万年くらいの世界で見ると、循環の流れを止めていることになる。
松井:確かに停滞させていることになりますね。
三原:ただ実際には自分の身体を分解したくても、現状の法律では不可能なんですよ。一部ではまだ土葬の風習が残っているエリアがありますが。自分の制作と身体の行方のために、近い将来山を買って実験場にしようかと調べていて、土葬の風習が残っているところも候補として考え始めています。
コンポストのオンラインストリームは、僕が死ぬまで公開され、僕が死んだらその時の法律によって3つのパターンを考えています。
松井:それはエクスペリメンタルですね。分解はアナリシス(分析)とも言えると思うのですが、一方で他の個体とのシンセシス(合成)とも言える気がするよね。
三原:実感としてはアナリシスとシンセシスの両方が同時に起こっているということだと思います。死と生が同時にすごい頻度で起こっているということですね。
松井:研究をしたり、作品を見たりする時に、分析作業をしますが、その分析結果や自分なりの解釈を使って、新たなものを生み出していく。そういう循環、エクリチュールなんだなと話を聞いていました。
三原:そういう意味では、いまコンポストで土を作って、その土で好きなものを育てているのですが、今年からそれでイランイランなど天然香料の花を育てて、香りの研究を始めました。
松井:香りですか?
三原:嗅覚の作品を作っています。花だけでなく果実も育てていますが、蜂がすごくくるようになりました。そうしたら、すごく実がなるようになって、それが今年加わった新しい循環のフェーズです。
少し話がそれますが、藤幡(正樹)さんと銅金(裕司)さんが「植物歩行訓練」という作品を作っていて、そのトークで「この作品は世代交代して進化させないといけないから、蜂がいて完成する」というようなことを話しているんですね。
松井:そんなこと言っていたんですね。
三原:それがいますごく理解できています。植物をベースにした作品では、蜂を一緒に提示するのはありだなと。
松井:受粉するという、虫が作る循環が実りを作っていくということなんですね。
三原:自分の庭でそんな循環のサイクルについて考えながら、土から派生した新たな作品に生かすことができたらいいなと考えています。
※1 2004年より、斉田一樹、むぎばやしひろこ、三原聡一郎他により創発をテーマにした非中心的なインスタレーションを展開。たった1つの音の入出力機能を実装した同回路群によって環境と繊細に呼応し、有機的な音響環境をつくりあげてきた。小型マイクにより環境音に反応し、ソフトウェアによる合成波形音(ver.1, 2006)、電磁石スイッチングの物理音(ver.2, 2009)を経て、最終仕様として、放電現象を生成させるver.∞が2018年に完成。ver.1はIAMASでの自律分散協調システムについての工学、哲学そして芸術の3領域の交わる卒業研究/制作として発表。バージョンアップを重ねながら、2011年ZKMにて行われた音の芸術の1世紀を網羅した展覧会参加など、国内外のホワイトキューブから古民家、ナイトクラブまで幅広い音響環境で発表を続けている。
※2 REAL DMZ PROJECT(リアルDMZプロジェクト) 2012年よりキュレーター金宣廷(キム?ソンジョン)により主導される南北北朝鮮の軍事境界DMZをテーマしたアートプロジェクト。三原はミサイル発射によるJアラート発出などの日本国内でのみ混乱が起こった事を契機に2017年の公募レジデンシーに応募し協働コンポストのプランで採択。鉄原群東邑にある、2012年に民間統制区域を解除された陽地里(ヤンジリ)村で冬期2ヶ月滞在制作を行った。渡り鳥の飛来地としても有名。
取材: オンライン
編集?写真:山田智子