INTERVIEW 037
GRADUATE
松本典子
合同会社byNumbers代表?プログラマ?テクニカルディレクター/2007年修了
過去の財産に助けられているから、それを未来へ還元したい
クリエイティブプログラマ?テクニカルディレクターとして活躍する松本典子さん。平林真実教授と行った共同研究?開発が実用化され、その収益の一部を利用して、IAMASと共同で女性向け後期学費支援奨学金を設置、IAMASに寄付しました。今回の寄付に至った経緯やその背景にある思いについて、平林教授が聞きました。
IAMASが公立であることは貴重
平林:まずはIAMASへ進学した経緯から聞かせてください。
松本:大学在学中にモーショングラフィック映像、センサーを使って映像や音を変化させるインスタレーションを制作していたこともあって、それを発展させた研究や、関連するプログラミング技術の習得ができたらと考えていました。関西圏から近い事、また在学中の住居に関する手厚さや、社会人をして貯めたお金で通える学費額などが進学を可能にした1つの理由です 他の私学大学院に比べてそういう意味でもIAMASが大垣にあり、公立であることの貴重性は高いと思いますし、IAMASを受ける人の理由の一つになっていると思います。
平林:IAMASの修士制作?研究はどのようなものでしたか。
松本:最終的に、マルチ映像のための編集および同期映像出力の手法を研究し、ソフトウェアを開発しました。実は最近それが実用化して、ある場所に17面のモニター映像を同期するソフトウェアとして納品し、現在も某所で、稼働しています。約20年経っているので、さすがにプログラムは違う言語で書き直しましたが、基本的な同期システムの考え方は当時と同じです。学生時代の研究を実用化できたことは私の中で自信になりました。
平林:修士論文が実用化するのは珍しいですよね。今振り返ってみて、IAMASで過ごした時間はどのような位置付けですか。
松本:とても貴重な時間を手に入れたなと思っています。当時はまだネットに動画がない時代で、今のようにインターネットでさくっとわかりやすく、何かを学ぶということが難しい時代でした。IAMASでは、様々な機材や、豊富な経験、知識のある人が周りにいる。そういった環境はありがたかったです。
どんなことでも独学で学ぶのは大変ですが、同じような困りごとを抱えている人が複数いると、「こういう技術書があったよ」「こういう時はこうしたらうまくいったよ」と互いに補完しあって学習が進めやすくなる。そういう仲間、時間、ノウハウがIAMASにはたくさんありました。リサーチする能力もすごく鍛えられましたね。久しぶりに修士論文を読み返してみたのですが、当時の私はこんなリサーチをしていたのかと、自分で驚きました(笑)。社会に出ると、意外と表面的なリサーチで終わってしまうことがたくさんあるのですが、学生のときに深く、幅広いリサーチをしてきた経験は自分の強みになっていると感じています。
クラブはアイデアをすぐに試せる実験の場
平林:松本さんは研究と並行してVJ活動をしていていました。私との関係性も研究の指導教員と学生というよりはクラブ友達という感じですね。
松本:私はIAMAS入学前大学在学中の2000年から、京都のクラブでVJを毎月1、2回はしていて、その流れで、次第にMax/MSPやプログラムを書いて映像を生成するスタイルになっていきました。音楽に同期して、パッケージの時間軸にとらわれない映像をプログラムで生成することに興味があったんです。平林さんとは共通の知り合いであるMAYURIさん(DJ/オーガナイザー)の存在もあり親交ができて、在学中も卒業後も指導というより、一緒にクラブでの発表活動をしてましたね。
平林:松本さんの中でVJ活動とアート活動はどのような違いがあるのですか。
松本:私はクラブを実験ができる一つの場所と捉えています。事前にプランはありますが、現場に行って合わせながら、リアルタイムコーディングをして調整したり、映像を出していく。作品とまではいかない、いろんなアイデアをどんどん試していました。スモークを焚いてそこに映像を投影したり、プロジェクターを斜めにしたらどうなるかとか、テレビを何台も積んで映像を出したら何ができるかとか、テレビやプロジェクターという一つのメディウムを使って遊んでいるという感覚です。実験的で、一夜で終わり再現性をとらない、まあただそれがアートかと言われると私にとっては、また違う楽しみですね。
平林:その考え方自体がクラブっぽいですね。
松本:大学時代を京都で過ごしてよかったと思うのは、普段自分が出演しているクラブに海外DJがツアーで京都にくるので、交流や共演経験を積めたり、2000年代には少なかったプログラミングを使って映像表現をする海外のアーティストも一緒に来京されたり、20代の私は多くの影響を受けました。
東京はメインカルチャーで、垣根も高いですし、ある程度完成したものを表に出す場所だとしたら、京都はアンダーグラウンドで、自分の実験的なことがフランクに日々できるカルチャーがある。母校の成安造形大学の先生方もメンバーであるDumbTypeもはじめ、京都から面白いことをやっている人が生まれているのは、そういう背景があるんじゃないかと推察しています。
平林:京都 CLUB METROが牽引してきたカルチャーですね。
松本:私はいま、東京の武蔵小山を拠点にしているのですが、ここも実験の場がたくさんあってすごく助かっています。ホームセンターとなんでも揃う日本一長い商店街があって、広いスタジオ、リソグラフ工房、品川区の貸ホールまで様々にあるので、アイデアをすぐに形にできるんですよ。武蔵小山は、明和電機さんが古くから拠点にされてて、他にも、ものつくりをしている方々がたくさんいて、相談したりされたり、周りの、文脈にとらわれず、自分の資金で自由に作りたいものを作りあげる姿勢に刺激をうけますね。
平林:なるほど。思いついて、すぐに実装するのが好きなんですね。
松本:そうですね。お祭り気質なのかな?そういう意味で、アートの場合は、長く1つの物をアートとして成立させる事、発表する場所も重要で、自分には合っていないのかもしれません。大学時代から、クラブのように気軽にジャストアイデアを発表できる場所があったのはありがたかったですね。
平林:IAMAS卒業後は、制作会社イメージソース(現株式会社D2CID)に就職しました。制作会社に所属すると、自分が作りたいものではなく、クライアントの求めるものを作らなければいけないですよね。他人が考えたアイデアをただ開発することに対する抵抗感はなかったのですか?
松本:私の場合は自分でプロトタイプを作れるので、何か面白いアイデアを思いついた時に、それを実際に動く形にしてプレゼンすることはできたのは大きな強みでした。当時そういった形で、企画をプレゼンする人は少なかったので他の人よりも多く自分のアイデアを形にするチャンスを得られたのはありますね。
平林:つまり、大きな方向性は会社が決めるとしても、その一部として自分のアイデアを入れる余地はあったということですね。
松本:そうですね、でも耐えられない人がいるというのも理解できます。日々徹夜でしたし……。私は経済的な理由もあり、5年間は同じ会社で働こうと決めていたので、勉強だと思って働いていました。あとは社会の中でどう通用できるのかにも興味がありました。そのおかげで、当時の同僚から仕事を発注していただくことが今でもあります。あとはIAMAS在学中にYCAMなどでの舞台、現場に参加させて頂いて、鍛えて頂いた事や、長年のVJ経験もあり、タフだったというのもあるかもしれませんね。
平林:それはあるかもしれませんね。夜に行って、設営して、朝までVJをして帰るのが普通なので。
松本:エンジニアの中には、開発だけで設営や現場が苦手な方も最近多いらしく、できないのが悪いというわけではないのですが、私がエンジニアリングから設営運営撤収まで一貫して対応できるのは、現場や舞台で鍛えられたからだと思います。
オープンソースカルチャーの延長としてのドネーション
平林:イメージソースを退職後は、イギリスでインターンをしたり、東北大学の研究室で働いたりして、2018年に合同会社byNumbersを立ち上げました。どのような事業を行っているのですか。
松本:基本的には企業間取引(BtoB)で、キャンペーンや体験型施策の企画?施工、ソフトウェア開発や関連するデザイン、2DCG映像制作など様々に受注しています。それ以外も研究系の受託開発もありますし、単価が合って、オーダーがあればいろんな形態のソフトウェアの開発もしますね。先ほどもお話しした通り、過去の制作での関係から声をかけていただくこともありますし、受託案件の中で修士論文が実用化したりと、20代の財産のおかげでここまで順調にやってこられました。
平林:今回女子学生を対象にした奨学金の提供をお申し出いただきましたが、それも過去に開発したソフトウェアが原資です。
松本:そうなんです。2008年にMETAMORPHOSEという野外音楽フェスティバルの公式アプリを平林さんと企画し、その中で、自主的に、位置情報系の体験を共同研究?開発しました。METAMORPHOSEは会場が野外ですごく広いので、回遊性を持たせるために、会場内の数カ所に隠されたトラック(音源)をARで探して巡り、ゲットできるゲームを組み込みました。その後、2012年に情報処理学会のエンタテインメントコンピューティング研究会で、「TrackGetter:音楽フェスティバル会場における音探しゲーム」として共著のペーパを発表しました。
この実証研究結果は長い間眠っていたのですが、数年前から東京中のギャラリーや美術館をバスで巡るアートイベントの中で少し形を変えて活用していただく事が出来、実用化して収益を生み出したんです。平林さんは公務員なので報酬をお支払いできないこともあって、弊社から支払うべき報酬を企業寄付型奨学金という学生に還元する形でIAMASに提供させていただくことにしました。
平林:この奨学金は、松本さんの意向が強くあったからこそ実現したものだと思います。
松本:私が事業としてやっていることは、主にエンターテインメントなので、一瞬で忘れられてしまうようなことです。私は誇りを持って関わっていますが、必ずしも社会にとって、例えばコロナ禍の医療のように絶対に必要とされている事をしているとは言えません。だから事業をして得たお金の何%かは社会貢献に使いたいと考えていました。
今回の奨学金以外にも、会社としては、IAMASの卒業生、森岡まこぱさんが運営するWEBマガジン「On Ridgeline(オン リッジライン)」に協賛バナーを出稿したり、関係性がある方のクラウドファンディングの支援金をお出ししたりしています。
平林:もともと社会貢献意識は高かったのですか。
松本:昔からソフトウェア開発、プログラミングの世界には開発者フォーラムやオープンソースコミュニティがあり、技術を無償で互いに共有し合うようなカルチャーがありますよね。私も開発者メーリングリストなどで知識を得てきたし、助けられてきました。IAMAS在学中に行っていた共同Technoteサイトのように、自分が提供することもあります。そういったオープンで互助的なソフトウェア開発カルチャーの考え方がベースにあります。また開発カルチャーにはドネーションという支援方法があり、企業や個人が寄付を行うことで開発者が潤い、文化や技術が成熟し、つながっていく事もあります。
平林:今回はIAMASにドネーションしたということですね。女性を対象にしたのはなぜですか?
松本:私が女性だからです。学生時代、女性開発者として、また子育て経験を経て、女性が社会進出する上での困難や、理不尽さに直面することは様々あり、会社として、こういった機会があれば、女性の自律的な可能性を支援したいという思いがありました。あとは、以前勤務していた東北大学は、日本で初めて女子の入学を許可した大学ということもあり、女性向け学生支援、奨学金が充実していました。そういった支援を見てきた影響はあるかもしれません。対象を誰にするかはドネーションする側のポリシーで変わって良いと思います。
今回の企業寄付型女性向け奨学金は一旦は、単年度限りとしておりますが、今後も会社としては、かわらずできる範囲で、多様な支援をやっていきたいと思っています。
また、今回の件によって、民間企業や卒業生個人がIAMASに寄付ができる仕組みを、教授会の皆様や事務の方々のご助力で、作り上げていただけたので、卒業生には、同じような起業経営者もたくさんいらっしゃいますので、ぜひ仕組みを利用して、我もと続いてくれる人が出てくることを願っています。
取材: bet36体育在线-体育投注官网@[IAMAS]
編集/写真: 山田智子