IAMAS: Triptyque 02
『 に捧ぐ』:山田聡 “Dedicated to…” Works by SO YAMADA
「IAMAS: Triptyque」は、図書館に設置された3台のディスプレイを共通のメディアとして、映像の可能性を自由に実験するための展示シリーズです。第2回目は、『 に捧ぐ』と題して、山田聡が展示を行います。図書館での開催に因み、書籍の謝辞をテーマとした新作を発表します。
山田は、《現代美術駄洒落》(2016年)、《搬入のための搬入》(2018年)など、既存の美術の文脈や場に注目しながらそこに生じるアーティストと観客の特定の関わりに焦点を当てています。書籍における謝辞と読者の関係では、多くの場合、著者による家族への私的な謝意や形式的な記述など、読者にとっては重要でない場合もある一方で、研究上の特別な思い入れや思いがけない人と人のつながり、意外な事実が露呈するスリリングな場でもあることに気づかされます。このような制度の中にひそやかに挿入された親密な言葉の断片にこそ、無意識のうちに社会へと向けられた著者のメッセージを感じ取ることができます。(文?伊村靖子)
作品について
僕は本を読む。できればおもしろい本を読みたいが、中には退屈だと感じる本もある。退屈な本の中にも、興味深い部分がある。それは、 謝辞や献辞の部分である。謝辞や献辞を読むと、どんな本でも誰かに向けて書かれたものであるという、当たり前のことがわかる。作者たちは本の内容に関係なく(もちろん関係者に向け媚びへつらうものが多いが)誰かに捧げたり、感謝したりしている。本が書かれた背後には、本に書かれない物語が数多く存在しており、謝辞や献辞の中にその瞬間を垣間見ることができる。
短い言葉で捧げられた感謝の言葉は、純粋に美しいと感じる。アートは「後世の人に向けて作られている」とよく言われる。当然だが、作品制作や展示の背後にも語られない数多くの物語(搬入)が存在している。それらは図録が発行されるような有名な作品では語られることもあるが、基本的に語られず、作品の中から見出すほかない。僕は特定の誰かに観てほしくて作品を作ることがある。しかし、往々にして観てほしい人には観てもらえない。観てもらったところでどうなるわけでもないのだが、ただただ観てほしかったのだ。宙吊りにされた気持ちがあったことを作品を見るたびに思い出す。
これは、作品を捧げていることになるのだろうか。人類が過去に打ち上げた、ボイジャー1号?2号という無人探査機がある。それらは、いろんな言語の挨拶や音楽などを記録したレコードを搭載し、地球人ではない「何か」が見つけ、解読することを期待して宇宙に向けて打ち上げられた。存在するかわからないものに対しメッセージを送ることは、もはや「祈り」である。地球からもっとも遠くにあるレコードには、嘘やお世辞が入り込む余地は一切無い。
作品はいつでも沈黙し、いつか見つけてくれることを待っている。
2018年10月 水の畔にて 山田聡