水野 |
そのリアライゼーション、イデアという理想を物質化するときの制約条件を考えて、最初の論理を考えていく。
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三輪 |
そうですね。だから多分、現実の空間というのが一番コンピュータの中の世界と違っていて。コンピュータの中のグラフィックなり写真というのは、いまだったらいくらでも大きくしたり小さくしたりできるわけですよね。つまり、基本的に大きさがないわけです。対して地上では何ミリの角材の何センチあったら、必ずこの大きさであるし、ちょうど手のこの長さかもしれない、そして重さがあるという。その全てを含んでいるっていう、その地上にいるっていうことの不思議さみたいなものを、なんか僕は感じて。そしてインターフェースとおっしゃいますけれど、そういう意味で僕は地上のことを「この世」ということにしているんですね。そしてモニターの向こうの世界を一応「あの世」と呼ぶことにしているんです。多分インターフェースというのは「この世」と「あの世」を連絡するなにかなんだろうなあ、というイメージを僕は持っています。
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水野 |
それが三輪さんの多くの作品だと、人間の身体ということになっているんですね。 |
三輪 |
そうですね。機械ではなく、身体は人間が行為するということの意味みたいなものを特に音楽においては重要視しているからです。
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水野 |
人間の身体を中心に組み立てた論理とかを、さらに受肉というか、この世に確固として置くために、「という夢をみた」という言い方で命名という行為をされているのは、やっぱり論理を身体に置いただけではこの世界に登録されない。あの世から身体を通してもこの世にそのままでは登録はされないと思われているから、更に物語をつくってこの世の中にしっかりと根付かせる行為を行っていると。
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三輪 |
その通りですし、別の言い方をすれば人間が何かを認識するというのは、必ず物語という認識の形式に沿って行っていると。例えばピアノソナタを何かの機械に頭で考えて書いたとしてもそれは私がつくったとか、こういう気持ちだったとかいろんな物語が付くわけですね、「この作品はね」という。それが例えばこの論理演算システムみたいなものから始まったときには、基本的にそういうものは、こういう機会に、このシステムを考えついたというのはあるかもしれないけど、それはあまり物語にはならない。なので、それだったら架空の「という夢をみた」というのは、はじめから物語だと言ってもいい。作者の夢物語だと分かっていても、必ずその物語は機能するはずだと。そういう確信のもとに、作品の一部として物語があります。
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水野 |
その物語自体の語らい方が、《またりさま人形》のように実際に影響を与えるということですよね。そこに書かれた一文、「水が流れている」というのが作品そのものに影響を与えていく。コンピュータというのはよく、音楽とはまた違うコンピュータの世界のアートとか、インタラクティブと言われて、双方向的に何か行為をしたら画面から返ってくるものに使われています。ゲームもそうですけど、そういった「インタラクション」がコンピュータのもたらした世界だとすれば、その画面を通したあの世とこの世のインタラクションというのも出てくると思うんです。ただ三輪さんの世界というのは、やはり三輪さんが規定した世界というか。さきほどの演奏を見たときも、実際に見ているときには入ろうと思ってすぐに入れるものではない。「インタラクション」が簡単におこるというのがコンピュータの世界なのだとすると、三輪さんのパフォーマンス作品は少し違うような気もするのですが。 |