「ねお展:アジール(自由領域)であり続ける地域のこれまで そして これから」展
「根尾はアジール[自由領域]だった」。木地師や炭焼き職人が住んだ山間地にアジールという概念を適用して新鮮である。その印象的なフレーズが載っていたフライヤーは、十分なリサーチのもとに描かれたと一目でわかるイラストだ。木陰の白いムク犬はきっと飼主と一緒に山や川にいくんだろう、薪で炊いている芋はきっとホクホクだ―と。これは見てみなければと、岐阜県博物館(関市)まで出かけてみることにした。
想像を超える多重的な調査とアウトプットだった。日用品や風景、記録を取り込んで、時間軸に空間軸を加えた、ドキュメンタリーとアートを横断したリサーチである。
岐阜の根尾地区は、「根尾谷淡墨桜」で有名なあたりから、福井県との県境に近い山間地までを含む。変形多角形の展示室にランダムに置かれた多くの展示物によって、自ずと分け入るような行きつ戻りつの鑑賞ルートとなり、まるで杣道を歩くようだ。根尾の山を、IAMASのリサーチャーと根尾の人に案内してもらっているような心地がしてくる。
リサーチを表現に繋げる多彩な試み
根尾には40社近くの神社がある。というと、小さな祠を想像されるかもしれないが、その多くが立派な石段や鳥居や杉木立の参道等備える神社である。それは、根尾の全ての神社を描き、作者の一人に名を連ねる根尾公民館職員?杉山さんの絵で示されている。住民はいなくなってしまったが年一度の夏祭りに元住人が一堂に集まる場となっている等、場の歴史も同時に蒐集される。
神社の絵と絵が麻紐で繋がり、空間に立涌文様を成し、微かに揺らぐ様子も含めて、歴史的な場や経験がいかに柔らかな関係性のなかに編みこまれているかが暗示されていた。
丁寧に扱われていたのだろう、飴色となった建具(簀戸)の両面に、二つの作品がそれぞれ貼られている。
まず片面をみる。寒さが厳しく、冬には岐阜市内に下りて過ごす住人が多い集落に住んでいながら、長年、冬を根尾で越してきた高齢の林業家の話を丁寧に拾った《松葉五郎さんの語り》。語りの背後に、単なるオーラルヒストリー収集を超えた、信頼と膨大な時間が流れていたことが窺われる。そして、そのほんの一部を抽出する削ぎ落しの妙。
簀戸の反対面には、建築工学的見地からの「根尾での解体は、都会のように隠されていない」という気づきに発した《解体すること、循環していくこと。》。今は都市部で暮らす元住民が、母の死をきっかけに、生家を朽ちるに任せるのではなく、更地にしていく心の動きも辿る。
建具は、さえぎるものであり、ひらくもの。表裏はなくどちらの方向から見ても表面。この2つのリサーチの支持体として、これ以上のものはなかろう。
根尾では、上水道とは別に、住人が自作のパイプラインで山の水を自宅にひき、台風や経年劣化による詰まりや破損を直すなど、日常的に維持管理を行っている。レーザーカッターで木材を切り出した立体地形図(制作:小林孝浩)に水路を示し、その上に、水を管理する営為の記録映像を映し出した作。住人が、防水胴ズボン付き長靴を履いて山中を水源まで遡る様子や、会場で無料配布されている報告書『根と茎と菌 根尾の共生ネットワーク』(2019)からは、長期にわたる考察が重ねられていることが窺える。
担当職員が「動くとは思っていなかった」壁を開き、現れた空間を利用して映像をリア投射している展示手法が、博物館のあり方の‘奥行’を広げる象徴のようにも見えた。これについては後述する。
空家の庭先に、謎の白い物体が大量に散乱してたことから発想された作。一見、動物の骨のような、白いなめくじのような、箸くらいの長さの白い棒はプラスチック。床柱に使われる絞丸太を人工的に造るために、植樹の幹にびっしりと巻き付けて成長させる林業の小道具である。学生は、このプラスチック棒で、架空の恐竜や小動物の骨格標本を組み立てた。博物館での展示であることを意識して、化石標本に‘寄せた’造形物で、ユーモラスな「あったかもしれないアジール」のイメージを提起した。
国策で針葉樹造林が奨励された時代の道具が、かつて生活基盤であった広葉樹自然林の草叢にいた絶滅種の骨に転じ、森林利用の空洞化を可視化した。
これらは、ねお展のほんの一部だ。教員のフィールドワークの密度に比し、学生の発表のなかには熟していないものも見受けられた。しかし、それだけの準備期間が必要だったのだろうと確信される、7年に及ぶリサーチの蓄積と研究の層の厚さ、世話になった根尾の人たちに誠実に応答し、共に表現した本展は、社会学?民俗学?文化人類学?工学などの総合知にもとづく越境的アウトプットである。
筆者は、勤務館でアートプロジェクトやレジデンスプログラムに関わる機会が多い。地域に取材した作品を作家は提案するし、こちらもコーディネートする。この仕事をしていて、嬉しく、やりがいのあることの一つである。だが、いつの頃からか、心の底で微かな迷いが生じている。作家の名誉のために明記しておくが、作家はいつも真摯に素晴らしい制作をする。ただ、自らの試みが、地域に対して表層的な関わりに終わってはいないか、そこに何かを残せたのかと省みる。地域の発展に貢献する/光をあてるという立場は、ともすれば、「外から」の視点となる。そうではなく、深く聴くことの重要性、身を投じるということ、あるいは、身を投じることを許されるということを、本展は改めて気付かせてくれた。作家/学生が‘訪れる人’であったとしても、教員/学芸員がその土地に対し根をおろし応答責任をもつことで、かえってその複数の関係性のなかから立ち上がってくるものがあると考えてよいのではないかと思えた。
鑑賞後の感覚は、宮本常一『忘れられた日本人』の読後感に似る、といえば伝わるだろうか。これらの表現を生み出したのがどのような社会であるのかが沁みこんでいって、生き方に知らず知らずに影響を受けるような。展示を通して、確かに、根尾を訪ね、根尾の人の声を聴いた。
ミュージアムとリサーチと表現の新たな試み
岐阜県博物館は、総合博物館である。総合博物館とは、自然科学と人文科学の両方を扱うミュージアムだ。地域を接続し提示する発想の自由さには、県博物館としては史学等の立場から戸惑うこともあり、「来館者が本物の恐竜の骨格標本と間違うのでは」等の心配もあったと聞く。
しかし、「ねお展」が、美術館でもIAMASでも、根尾でもなく、総合博物館でひらかれたことに大きな意味があると思われる。
もはや博物館学の古典著ともいえる『市民のなかの博物館』(1993)で、伊藤寿朗が「主体と客体を明確に峻別し、対象を個別細分化し、コンテクストを徹底的に排除した、ひとつの設問にひとつの回答というスタイルが、近代合理主義の思惟様式」「博物館のもっている知識を、人びとに教授するという啓蒙主義は、受け身の社会では今後とも人びとの人気を博すことだろう」と指摘してから30年近くが経つ。上記書刊行の翌年、岐阜県博物館は、「ねお展」が開催された「マイミュージアムギャラリー」の活動に、先進的に取り組みはじめている。博物館の展示スペースを、ある程度まとまった会期で岐阜県に縁のある出展者に提供するという事業だ。募集は年1回審査があり、一般的な貸館事業に比べると、広報等にも博物館の関与が大きい。これまで本格的な地域研究や個人蒐集の成果発表が重ねられており、今回で記念すべき200回目を数える。
本展は、口承や民具や冊子などを多層的な解釈や表現で展示しており、リサーチと表現の可能性を拓く実践といえる。
故郷にとどまり続けること、そこで生き続けること
ねお展は、文化の均質化が加速する現代、都市と鄙という相対関係を超え、別の生き方が、時間があるというごく当たり前の事実を感じさせてくれた。
近年、ディアスポラがアートに影響を与えている。かつて、根尾も別の地域から流れてきた人たちや無縁者によって少しずつ人が住みつくようになり、やがて集落になり、さらに人が流入してきた土地であり、白山信仰の山伏たちにとっては聖域(アジール)であったという。根尾の集落の人々は、身体的に故郷にとどまり続けるという意味ではディアスポラと一見対比的ではあるかもしれない。だが、古にはディアスポラの当事者であり、故郷とは何か、そして、土地と人生の関係について身を持って示している。だとすれば、「アジール」が、ここ日本の根尾にあると受け入れることが、われわれ自身が心に「自由領域」を持って生きてけるかどうかなのではないだろうか。
撮影:山田智子