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福島諭「記譜、そして、呼吸する時間」展

川崎弘二(電子音楽研究)

 2022年7月5日から9月11日にかけて、岐阜県美術館では「IAMAS ARTIST FILE #08」として、福島諭「記譜、そして、呼吸する時間」展が、そして、関連プログラムとして2022年8月28日にコンサート「エレクトロニック ラーガのための室内楽」が開催された。この文章は上記の展覧会とコンサートについてのbet36体育在线-体育投注官网@であり、(1)福島諭について、(2)佐藤慶次郎について、(3)展覧会について、(4)コンサートについての4つの部分から構成されている。

福島諭がリリースしたCD-R、参加したコンピレーションCDなど

1?1.リアルタイムなコンピュータ処理

 1977年6月に新潟で生まれた福島諭は、2002年4月にbet36体育在线-体育投注官网@(IAMAS)に入学している。自身のウェブサイトに掲載された略歴において、福島は学歴のあとに「2002年よりリアルタイムなコンピューター処理と演奏者との対話的な関係によって成立する作曲作品を発表」※1するようになったと記している。この記述から福島は自身の作家としての起点を、IAMASに入学した2002年にあるとみなしているものと考えられる。さらに2002年に福島はIAMASにおいて、鈴木悦久/飛谷謙介とともにグループ「Mimiz」を結成しており、2004年3月にIAMASを修了した福島は、新潟を拠点に活動を続けていくこととなる。

 福島の存在が広く知られるようになったのは、2006年8月から9月にかけてオーストリアのリンツで開催されたメディア?アートのフェスティバル「アルス?エレクトロニカ」のデジタル?ミュージック部門へMimizが入賞したこと、そして、2006年9月に開催された愛知芸術文化センターの主催による第1回の「サウンドパフォーマンス道場」において、福島の「Vocalise for soprano and computer」という作品が第1位に相当する優秀賞を獲得したことに始まるものと思われる。

 アルス?エレクトロニカのウェブ?アーカイブ※2において、Mimizはプレイヤー同士がコンピュータだけでコミュニケーションするという独自の方法論に基づくグループであると指摘されている。そして、鈴木と飛谷の演奏する楽器の音は福島の操作するコンピュータによって、カットアップ、分解、音響処理が行われるものの、互いの演奏そのものは耳にすることはできず、結果として出力された音によって、次の演奏が決定されるという意味の解説が残されている。

 2005年3月のスタジオ?セッションが収録されたMimizのCD「The God’s works of the principle of living only for the pleasure of the moment」には、鈴木のパーカッションと飛谷のギターというクレジットがある。しかし、この録音において楽器の演奏が前面に押し出される箇所はそれほど多いわけではなく、福島は2014年11月に行われたインタビューにおいても、「特にコンピュータから出力される音響は、舞台空間で演奏された生楽器の音をリアルタイムにサンプリングしたものに限定し、それらを加工出力することで得られる一回性の時間に魅かれてきました」※3と述べている。すなわち、福島の「舞台空間」のための音楽は、あらかじめ録音されたサウンド?ファイルなどを再生するようなスタイルのものではなく、あくまで演奏者による生の演奏を重視していることが分かる。

 三輪眞弘は、20世紀以降の世界の作曲家たちによる「生演奏と(註?コンピュータによる)リアルタイム音響処理を前提」※4とした音楽は、全般的に「演奏家の技芸をさらに拡張したり、スペクタクルなものにするような(略)音楽の本質とは異なる、単なる『演出/エフェクト』にしか感じられなかった」※5と発言していた。しかし、福島の作品におけるコンピュータの使用は演奏された音にきらびやかなエフェクトを与えことを目的とするものではなく、三輪は福島の作品について「演奏家の技量を華々しく見せようという意図がまったくない」※6と評している。

 福島も自身の作曲について「特にコンピュータの内部で扱うパラメータはとても繊細なため、数値をわずかにずらしながら響の変化の角度を少しずつずらして行くような作業が多くなります。わずかな変化が予想外の方向へ傾いてしまう恐れと常に隣り合わせなのです。見た目には地味ですが、それが精一杯です」※7と説明していた。すなわち、福島の音楽は生身の人間による演奏行為を起点とし、そこにコンピュータによって「少しずつ響きの変化の角度をずらしていく」ことで、不確定的に重層化された状態を特定の空間に現出させるというものであり、その姿勢は現在に至るまで一貫しているものと思われる。

1?2.生命的な存在

 新潟を拠点に活動を続ける福島の音楽を、コンサートなどで筆者が体験できる機会はそれほど多くなかったものの、私家版のCD?Rや楽譜の発行はコンスタントに続けられてきた。筆者の確認できた限りでは、2007年に「Happened Ground」「Finishing Mirrors」「the several obbligatos of the sunbaked slash /」という3枚のCD?Rがリリースされており、「Finishing Mirrors」は「ギターの弦を弾きながらMax/MSPによる自作ソフトウェアのパラメータを変化させていく形での演奏」※8を再構成する作品であった。

 そして、福島は「the several obbligatos of the sunbaked slash /」の解説において、「これまで音響加工のリアルタイム処理をライブ演奏で長く使用してきましたが、時折到達する新鮮な感覚を再編集してもっと身軽にパッケージングする事はできるのではないかと考えるようになっています」※9と記している。すなわち、こうしたCD?Rのリリースは福島がコンピュータを楽器のように演奏する過程において得た「新鮮な感覚」の記録であり、基本的には他者と完全に共有することが困難な「感覚」を、いかにして伝達させうるのかという試みのようにも思える。

 2008年に発表されたCD?R「おともなくうごくもの」と「タタミ カサネ クミナオス」においては、福島の興味の対象に変化が訪れているように感じられる。福島は前者について、「ピアノから発する音を素材にリアルタイム/ノンリアルタイムに処理を加え(略)テイクを重ねるうちにそぎ落ちて整い洗練に向かう部分もあれば、初期のテイクに宿っている重要な感覚が失われてしまうような停滞もあった。こうしたものは時間経過と身体や精神の本質的な変化に関係する部分かもしれない。録音時の季節は冬で、冬の寒さと静けさとが感覚に与える影響は少なからず大きかった」※10と述べている。

 そして、後者は「どれも八つという数字によって関係づけられて」※11おり、「八本のサイン波をそれぞれ独立してFM変調しながら音質を推移させていったもの(略)また、ある一つのサウンドファイルを八等分し、それらを同時に再生させながら変調させていったもの」※12などが収録されている。福島はこの作品が成立したきっかけについて、この年の夏に蝉の鳴き声を聴いていたとき、「自然の中に存在している同じ質感の音達は、ひとたび集まればそれひとつ単体で聴いたときとは全く違った様相になる」※13ことについて思考を巡らせていたことを挙げている。

 福島は2014年11月に行われたインタビューにおいて、「数年前までは幾何学や数の振る舞いなど数学的に比較的シンプルで抽象的な構造に非常に魅力を感じていました。音楽にもそういう明確な関係や構造が感じられるからです。その後、シュレーディンガー著『生命とは何か─物理的にみた生細胞』や清水博著『生命を捉えなおす』などの書物に出会ってから、根本的に音楽への対峙の仕方が変わったと思います。音楽は、ある限られた時間軸の中ではありますが音波の高度に組織された構築物として、ひょっとしたら生命的な存在で有り得るのではないか、と考えるようになっています」※14と述べていた。

 すなわち、このころの福島は数学的な関係を基礎にしつつも、「蝉の鳴き声(略)蛙の合唱、街の喧噪、木の葉の揺れる音、さざ波」※15などのような「生命的な存在」としての音響が、音楽のありかたへ影響を与えるようになっていたものと考えられる。そして、2008年8月と9月に行われたライブの記録が収録されたMimizのCD「Layered Session」において、福島は「Layered Sessionと名付けたセッションスタイルは2008年に一度頂点を得ていたと考えている」※16と発言していた。たしかに2005年3月のスタジオ?セッションと比べて、聴感上の印象だけで言えば「Layered Session」のコンピュータによる福島の音響処理は格段の進歩を遂げているように感じられる。こうしてこのころの福島には「生命的な存在」への関心だけでなく、Mimizとしての活動も含めた大きな転機が訪れていたことが分かる。

1?3.「変容の対象」とミニアチュア?スコア

 2009年の元旦からの濱地潤一と福島諭は、「記譜、そして、呼吸する時間」展にも出品されている「変容の対象」という作品を継続して作曲している。この作品は濱地がサキソフォン、福島がピアノを担当し、「五線譜を使用して各楽器を交互に作曲していく。相手の書いた最新の小節に対して自分の楽器パートを書き込むことができ、次に続くもう1小節を新たに書き加えることで最大2小節の作曲を毎回行うことができる」※17などのルールに基づくものである。そして、「ひと月に1曲の小品を作曲し1年間の12曲をひとつの組曲」※18として成立させることが目的となっている。

 福島らは「二人で行う即興演奏を楽譜を介してゆっくり形に残してみてはどうか、このような発想が『変容の対象』のきっかけだった。即興演奏時に現れては消えていく印象的な音に対して録音以外の方法で俯瞰できるシステムがほしいと考えていた頃でもあった。普段お互いが生活している土地の距離も考慮して、五線譜を使った交換型のやり取りを前提とした作曲というものが最善ではないか、と考え、こうして数分間の即興演奏を一ヶ月という期間を使って組み上げていく為の作曲ルールが考案された」※19と記している。

 即興に限らず演奏という行為は、音が発せられた瞬間に消滅することを余儀なくされる運命のものであり、不確定的な生の演奏を録音したとしても、その演奏の記録はジョン?ケージが言うように、実際の風景に対する絵葉書としての意味しか持ち得ないケースも頻繁に存在する。しかし、福島らの「変容の対象」は即興演奏を「俯瞰」するためのものであり、もちろん楽器を使用したフリー?ミュージックのような即興演奏とはディメンションが異なるものの、Mimizの活動に一定の成果をみた福島は、コンピュータを排した肉体のない即興演奏の方向へも歩みを進めることとなったわけである。

 そして、2009年5月には福島の「Amorphous Ring I for soprano saxophone and computer」という作品が初演されており、この作品は2009年6月にサンプルとしてのCD?Rが付属した私家版の「ミニアチュア?スコア」が出版されている。福島はこの作品のタイトルにある「アモルファス」という単語について、「固有の結晶構造を持たない物質の状態で、ガラスや生体組織の多くに見られます」※20と説明しており、この作品は「音楽におけるアモルファス」※21を追究したものであると述べている。

 表紙や奥付を除くと14ページからなるミニアチュア?スコアには、楽譜に相当する部分が6ページほど、そして、「プログラムノートより」「ステージ?セッティング」「コンピューターの内部構造」「楽曲の構成とコンピューターの内部処理」といった8ページほどの解説が掲載されている。そして、付属しているCD?Rはライブ演奏の記録ではなく、「別に録音されたソプラノサックスの旋律をもとにPC内で擬似的に演奏/処理された音響」※22によるシミュレーションである。すなわち、福島によるミニアチュア?スコアは、再演するための楽譜にコンピュータのためのプログラムが同梱されているわけではなく、かといって録音された作品を聴取するためだけのものでもなく、あくまで「Amorphous Ring I」という作品をよく深く知るための媒体としての意味合いが強い。

 三輪眞弘もこうした福島の「楽譜」について、「これほど詳細に『記述された作品』は近年驚くほど少ない。(略)それは『記述された音楽』という西洋音楽の伝統を引き継ぐものとして、また、『演奏のための覚え書き』としてではなく、『作曲家の思索の痕跡』としての(特に現代音楽の)楽譜を踏襲しているのである」※23と指摘している。さらに三輪は「福島がライブエレクトロニクス作品のための記述体系(書法)をK?H?シュトックハウゼンのスコアなどに続くものとして、独自に『発明』していたこと、そしてそれは『電子音響音楽の新しいエクリチュール』」※24として成り立っていると評価していた。

1?4.「時間」の置換/分析

 2010年3月に福島は「『時の置換』をテーマ」※25にした演奏会を開催しており、2010年5月にはピアノとコンピュータのための「RONDO for MI」(2006~07/2010)という作品のCD?R付きミニアチュア?スコアが発表されている。福島は「RONDO for MI」について、「演奏されたピアノの音をリアルタイムに録音し、移調し返す。こうしたコンピュータの静的な処理に対し奏者は、数拍前の自分の演奏の音の射影との対話を意識する必要がある。(略)形の変えられた過去の演奏音に対して奏者は任意の間合いをもって演奏に臨む」※26といった解説を記している。

 2010年3月の演奏会は、2011年2月に「Permutation of Time」というタイトルでCD?R化されており、福島はその解説において「『時の置換』とは何か、そのために最低限必要な機能の存在などに改めて気づかされる日となった。当たり前の事かもしれないが、その機能とは、対象の『記録』と『再生』である。(略)こうした『記録』と『再生』の機能を持つ媒体はある。人間の脳もそのひとつだ。コンピュータはその機能の拡張に用いられているに過ぎない。(略)時間を扱う『音楽』の大前提を脳の働きによる『時の置換』と仮定するならば、『音楽』と『人生』の境界線は極めて曖昧なものになる」※27と述べている。

 2010年11月には「Amorphous Ring II for computer and alto saxophone」という作品が初演されている。この作品について福島は、「奏者は曲が開始されてから終わるまでに常に自分の演奏音との心的な対話、(それも通常のアンサンブルに必要な対話とは異なる、ある種の孤独な対話)を強く要求されることになる。こと一回性の表現が要求される舞台上の演奏空間において何よりも必要なものは、限りなく開かれた可能性の中における、かけがえのない一瞬に対して、絶えず対話していく意識の流れなのだ」※28と主張していた。

 さらに2011年3月には濱地潤一の「contempt for soprano saxophone and computer」(2008~09)という作品のCD?R付きミニアチュア?スコアがリリースされている。濱地がこの作品について「コンピュータ?プログラミングは盟友福島諭氏に一任している」※29と記していることから、実質的に「contempt」はコラボレーションとしての意味合いが強いことが分かる。そして、福島はこの作品において、「人間vsコンピュータという対立関係から考える事をまずは止め(略)自らの演奏旋律に対して、異なる時間と音程、つまりこれは過去に対するある種の距離となって現れる」※30ようなかたちでコンピュータを使用したと述べていた。

 秋山邦晴は1966年11月に全曲が公開された武満徹の「独奏ピアノとオーケストラ群のためのアーク」という作品について、「指揮者のメトロノーム?テンポ、時計テンポ、独奏ピアニスト自身に任せられ、またかれが演奏家たちに合図するパーソナル?テンポ」※31という3種類の「時間」が交錯する作品であったと述べている。しかし、近藤譲は「アーク」における「この空間の時間化が新たな空間を齎すことはない。交錯する響きのなかで、三つのテンポをそれぞれ独立したものとして識別することはできないからだ。それらはいつも混り合ってしまう」※32と批判していた。

 福島は即興演奏を時間的に引き伸ばして「俯瞰」する「変容の対象」のようなコラボレーションにも取り組むなかで、コンピュータを媒介させた「時間」という存在についても再考するようになっていったものと考えられる。しかし、それは近藤が批判するような「新たな時間的空間」を導出したり、あるいは時間とともに変化する音響を生成したりすることだけを目指すわけではなく、福島が「contempt」の解説に記しているように、「内と外、生成と対話の複雑かつ即時的な判断の迫られる場に、奏者は身を置く」※33という状況へ追い込むための手段としてもコンピュータを使用しているように思われる。

 2011年11月には第6回となる日本作曲家協議会の「作曲賞本選会」において、福島の「オーボエ、2管のクラリネットとコンピュータのためのフロリゲン ユニット」という作品が入選しており、フロリゲンとは「植物の花成に関わる植物ホルモン」※34の名称であるという。福島はこの作品について「コンピュータは3人の奏者の演奏をリアルタイムに録音/加工し、一台の小型スピーカーから出力を行う。録音の開始と停止のスイッチはオーボエに取り付けられられたコンタクト?マイクによって成される。オーボエが吹かれている間が『録音実行』、吹かれていない時は『録音停止』となる。それ以外のパラメータは楽曲の各パートの冒頭で変えられ、全部で3つあるパートではそれぞれ違った加工処理が行われている」※35と説明している。

 福島は「結局、こうした演奏スタイルはその後の作曲作品にも継承されていくことになった」※36と述べている。そして、2013年3月には「『時の分析』をテーマ」※37にした福島の「オーボエ、2管のクラリネット、アルト?サクソフォンとコンピュータのためのbundle impactor」という作品が初演されている。また、2013年8月には「サクソフォン奏者がまず即興演奏を4楽章分行った。(略)それに応えるかたちでその『録音された』音楽をコンピュータ処理する」※38というプロセスによって、濱地潤一と福島が制作した「録音された様式としての即興という概念が交換されうる対象としての機能」というCD?Rもリリースされていた。

 この「録音された様式としての即興という概念が交換されうる対象としての機能」という作品は、「変容の対象」のバリエーションの一つとして発想されたことは明白であり、2013年12月に受賞者が発表された第17回の「文化庁メディア芸術祭」では、「変容の対象」が「アート部門 審査委員会推薦作品」として選出されることとなった(大賞1作、優秀賞4作、新人賞3作、審査委員会推薦32作)。メディア芸術祭のアーカイブには、「個人で行う作曲活動以上に表現領域が広がる可能性を直感」※39させると評されており、後述するようにその後の福島は、共同での創作を音響の領域に留まらない方向へも広げていくこととなる。

1?5.patrinia yellow/春、十五葉

 2013年10月には福島の「patrinia yellow for clarinet and computer」という作品が初演されている。patriniaとはオミナエシ属の植物のことであり、福島はこの作品について「前半で吹かれた音律の断片が、楽曲の中間部では合わさってひとつの和音の連なりを形成する(略)その和音の完成を花の開花の隠喩として捉える(略)この不可逆の時間の流れの中で記憶のフィードバックを通じて歩んでゆくものこそが生命である」※40と説明している。

 この説明から「patrinia yellow」という作品は、ここまで触れてきた約10年にわたる福島の創作に関わるポイント、すなわち、生演奏のリアルタイムなコンピュータ処理/数学的な構造/生命的な存在/時間などといったさまざまな要素を集結させた作品であると考えられる。その結果として、この作品は2014年11月に受賞作品が発表された第18回の文化庁メディア芸術祭において、アート部門の優秀賞を受賞することとなった(大賞なし、優秀賞5作、新人賞3作、審査委員会推薦45作)。

 2015年1月には「旋律は最後まで演奏されたのちに最初に戻る事のできる循環的な構造を持っているため、原理的には起点も終点もなくいつまでも続けることが可能」※41な「尺八とコンピュータのためのbranch of A」という作品が初演されている。そして、2015年5月には「現在と過去との関わりの中からしばしば生命は『予感』と、未来との接点を結ぼうとする。この『予感』とは何なのか。それは生命と、生命が踏み込めない領域との間を結ぶものではないか」※42という発想に基づく、「5管の木管アンサンブルとコンピュータのための春、十五葉」という作品も初演されていた。

 福島は自身のウェブサイトにおいて、「約11年続けさせてもらった写真館での仕事を、2017年の元旦から正式に離れることになった(略)とりあえず2017年は福島諭独りの時間を優先」※43させることになったと述べている。こうして2017年以降の福島はさまざまな方面の活動を活発化させていく。そして、2017年10月に初演された「尺八とコンピュータのための季鏡」という作品の解説において、福島は「循環性と選択はまた、大きな時間の流れの中で、『いま存在する』ための極めて重要な要素でもある」※44と記しており、生命や時間といった領域に対しての思索はさらに深められていった。

 三輪眞弘は「福島は『表現』しようとしているのではない。黙ってひたすら『聴いて』いる。彼の『いい耳』で聴きとっているものは『時間性』であったり、『生命力』であったり(略)きわめて直感的なものばかりだが、それらが理路整然とした作品の構造、そしてテクノロジー?システムの中に置かれた時、突如としてその音楽の『実体』が現れ、聴くものの前に指し示される」※45と指摘している。すなわち、福島の作品は「直感」にもとづいていたとしても、独自で精緻な構成原理を設定したうえで、コンピュータに代表される電子テクノロジーを介在させていることが重要なポイントであることが分かる。

 2017年3月に坂本龍一はアルバム「async」を発表しており、畠中実は「『async』発表後すぐに、坂本は『設置音楽』として、それらの楽曲を5.1 chの再生環境と映像を含めたインスタレーションとして、東京のワタリウム美術館で発表した」※46と述べている。すなわち、坂本のアルバム「async」は広義の「サウンド?インスタレーション」というスタイルの作品としても展開したというわけである。そして、2017年12月から2018年3月にかけてのNTTインターコミュニケーション?センターでは、「坂本龍一 設置音楽コンテスト」に入賞した作品の上演が行われることとなった。

 このコンテストには福島の「gladiolus white」という作品が佳作として入選しており(最優秀2作、優秀1作、佳作6作)、福島はグラジオラスという植物をテーマにしたと思われるこの作品について、「作品自体はマルチ?チャンネルにおける楽曲の可能性をまだまだ追求できるような気持ちにもなり新たな課題をいただいたような気がしている」※47と述べていた。このマルチ?チャンネルによるサウンド?インスタレーションを体験したことで、福島が感じた「可能性」に対する探索は展覧会「記譜、そして、呼吸する時間」における新たな設置音楽へとつながっていく。

1?6.Twill The Light

 2017年からの福島は、「Twill The Light」というシリーズを手がけることによって視覚的な方面へもその活動の幅を広げていく。このシリーズは展覧会「記譜、そして、呼吸する時間」のリーフレットに、「個々のデジタル静止画に留まる画像情報を初期値として扱い、静的なプログラミングによって画像が連続的に処理されていく。左右の画像情報が比較処理されながら中央の動画として新たなイメージを作り出していく」※48作品であると解説されている。

 そして、2018年4月の時点で福島は「Twill The Light」について、「2枚の静止画に留まっているRGB情報を比較して表示画像に変化を与えていくという処理がメインとなってきており、これは静止画に時間軸を与える行為であるという認識までは実感できている」※49と述べていた。この発言から「Twill The Light」という作品は、基本的には視覚的な表現でありながらも、静止した状態の作品ではなく「時間」がキーワードとなっていることが分かる。

 さらに福島は2017年8月に「デザイナーで美術家の高橋悠さん+香苗さん、映像作家の遠藤龍さんらと自主企画『RGB』を行えたことも大きな一歩として記憶している」※50と記している。そして、2018年9月に開催された「RGB2 Replace the Gliding Body」を告知する文章において、福島は「僕らが普段『音楽』や『映像』や『立体』と呼んでいるものの実体は何だろうか。それにはそれぞれどのようなパラメータが存在し得るのだろうか。そして、それらはお互いに置換することは可能だろうか。僕らは一度、自分の領分を踏み越える置換を試みるべきなのだ」※51と発言していた。

 2020年5月からの福島は、映像作家の遠藤龍と「月に1枚のペースでデジタルデータの静止画を文通のような交換形式を取り入れて制作を始めて」※52おり、このコラボレーションによる制作は「静止画データに対して一方が何らかの処理を加えて返答する」※53というルールにもとづくものであった。また、翌年からの福島と遠藤は、それぞれの撮影した写真(としての静止画データ)を提示しあう「並列画像」というシリーズにも着手していた。

 2021年11月からの福島は、「遠藤龍+福島諭の試みた静止画データを介したやり取りを、デジタル処理によるビジュアル作品を専門とする原田和馬と共に行ったシリーズ」※54も制作することで、さらに「自分の領分を踏み越える置換」を試みていく。福島はMimizに端を発するこうした他者とのコラボレーションについて、「他者と共に創作を行う場合、互いにとって新たな視点を交換し合える場に身を置く事が大きな原動力になる。芸術における個人の、自己を踏み超える可能性のひとつ」※55であると述べている。福島のこうした「自己を踏み超える」活動は、今後も続けられていくことだろう。

「記譜、そして、呼吸する時間」特別展示?佐藤慶次郎作品 左:エレクトロニック ラーガ (1979) 右:《花開》(1974)

2?1.佐藤慶次郎のシステマティックな作曲

 1927年6月に生まれた佐藤慶次郎は、福島諭とちょうど50年の時間的なへだたりを持つ作家である。岐阜県美術館における福島の展覧会「記譜、そして、呼吸する時間」には、佐藤の作品が2点ほど展示されており、展覧会のリーフレットには、「佐藤慶次郎は作曲から造形へ表現を拡張した先進的な作家です。この度、福島諭との共通点を探る試みとして特別に展示します」※56と記載されている。

 1999年11月から2000年1月にかけての岐阜県美術館では、「『在る』ということの不思議 佐藤慶次郎とまど?みちお展」が開催されており、この展覧会で展示された佐藤の27点の作品のうち7点が美術館所蔵の作品であった。福島から、あるいは美術館サイドからの提案だったのかは分からないが、福島の展覧会に佐藤の作品も設置されることとなったのは、以前から佐藤の作品を美術館が所蔵していたということが大きく作用していたものと推察される。

 佐藤は1945年7月に慶應義塾大学の医学部へ入学しており、このころから詩作に取り組んでいたようである。しかし、1949年2月に佐藤は早坂文雄のもとを訪れて、作曲の道を志すようになる。そして、1951年の秋には武満徹や湯浅譲二らもメンバーであった前衛芸術集団「実験工房」が結成されており、1953年には佐藤も実験工房へ参加することとなった。1955年7月に開催された実験工房の「室内楽作品演奏会」では、佐藤の「ピアノのための5つの短詩」「コンポジション?モノジェニック」という作品が上演されており、これらの作品では12音技法的な作曲が採用されている。

 ただ、湯浅譲二は「五つの短詩」を「ヨーロッパからの到来物としてのエクリチュールの踏襲を忌避しながら、極端に不必要なものを捨てて、いわば詩的実験を行っている」※57と評しており、こうした禁欲的な態度は足掛け4年の月日を費やして1961年1月に発表された佐藤の次作「ピアノのためのカリグラフィー」において徹底的に探究されることとなった。佐藤はこの作品の「素材音は、短2度2ケを含む3音からなり、その変化の多様性の獲得と組合せの検討は、予めシステマティックになされました」※58と記している。

 ヒューエル?タークイは「ピアノのためのカリグラフィー」について、「これはとてつもない曲だ。私は他の曲でこれと似ている曲を全く知らない」※59と評している。さらに中嶋恒雄はこの作品について、「二つの短二度を重ねた三音の合音からなるセリーを組み合わせて音高を決定し(略)研究を重ねたリズム細胞とその変型、それにアタックと持続を様々に組み合わせ、重ね合わせながら、絶対に同じフレーズを繰り返さない不確定性の強い、しかし、積極的な気迫に満ちた音楽を作り出したのであった」※60と述べていた。

 その後も佐藤は1962年と1964年に「カリグラフィー」と題した2つの弦楽器のための作品を発表しており、1965年11月には「10の弦楽器のためのカリグラフィー第2」という作品を初演している。佐藤は「第2」について、「いずれにしても、受動的注意の契機を出来るだけ排除して、聴き手の主体的注意の場とすることに努めました。すなわち、ここで意図されているのは、聴くという行為それ自体が人にもたらすものと相まって、ひとつの音楽的世界を成り立たしめるような作品」※61であると説明している。つまり佐藤は「カリグラフィー」の作曲を通じて、「聴くという行為」そのものを革新させようとしたわけである。

2?2.佐藤慶次郎のサウンド?ディスプレイ

 佐藤は「10の弦楽器のためのカリグラフィー第2」を発表したあと、五線紙による作曲からいったん離れて、まずはテープ音楽の方向を模索するようになる。1965年には「スティール?リボンによるカリグラフィー」という作品が制作されており、記録写真を見る限りでは「スティール?リボン」は数センチメートルの幅を持つ大小の輪状の鉄の帯であり(大きいものは70センチメートル程度)、佐藤はこの物体にコンタクト?マイクを取り付けて、さまざまな方法で音響を引き出していたようである。

 さらに1967年1月に佐藤は「アルゴル」と名付けられた「内部に沢山のとげを持った、鋳物の小さな箱」※62を使用して、そこから生み出された音響による同名のテープ音楽も発表していた。そして、1967年5月には音の作品「エレクトロニック?ラーガ」が発表されている。この作品の露出した金属の部分に演奏者が接触面積を変えながら触れると、人間の身体を「抵抗やコンデンサの代わりにして発振回路の一部」※63にすることができる。その結果として「エレクトロニック?ラーガ」は、微妙に変化する持続的な電子音の「デリケートな変化をエンジョイ」※64することが可能な装置となるわけである。

 佐藤の年譜の1967年の箇所には、「この頃より自室をスタジオとして多チャンネル音響の可能性と、そのシステム(音像移動システム)の研究を独自に追求する」※65と記されている。そして、1970年3月に開幕される日本万国博覧会の三井グループ館のために、1968年ごろからの佐藤は約1,700個以上のスピーカーを用いたパビリオン内の音響デザインの仕事へと集中するようになった。佐藤は1975年7月の時点で、「時空間構造体としての音とか、絶対受動性の場としての音場(略)音と人間の関係については大分考えました」※66と述べており、佐藤は作品も含めた自身の「音の世界に関わってくるもの一切」※67を「サウンド?ディスプレイ」という包括的な概念として提示するようになる。

 さらに佐藤の年譜によると、1972年の箇所には「この頃より壊れたスピーカーとイヤホーンのマグネットを手にしたことから磁性との戯れがはじまる」※68、1973年の箇所には「軸の振動による作品『Autumn Falls』」※69を発表したとあり、そして、1974年3月に開催された佐藤の個展「The Joy of Vibration」においては、「軸の振動による作品?磁気の振動による作品を展示」※70したと記されている。こうしてその後の佐藤の活動は、軸や磁気の振動を利用したオブジェ作品の発表が中心となっていく。

 1980年4月から5月にかけては佐藤の「ふしぎな振動の世界展」が開催されており、佐藤は創作ノートに「ぼくのオブジェの仕事は(略)それは科学でも芸術でもなく、自然の提示とする方が、より妥当であるように思われる。(略)ぼくの営みはむしろ、戯れ(遊び)と呼ぶことが、もっとも真実に近いと言えるだろう。(略)それは、一つの自然と言い得るのではないか?」※71という極めて示唆に富む文章を記していたようである。

 1987年ごろからの佐藤はヤマハのシークエンサーと電子ピアノ、その後はATARIのコンピュータを用いた広義のコンピュータ音楽にも取り組み、数十曲の作品を手掛けていたようである。しかし、2009年5月に佐藤が逝去するまでのあいだに発表されたコンピュータ音楽は、1992年7月に発表された「インヴァース第4番」や、2003年4月から7月にかけて開催された北代省三の個展において公表された「如何是 第9番」などのわずか3曲ほどであった。

設置音楽「春、十五葉」(「記譜、そして、呼吸する時間」展)

3?1.展覧会「記譜、そして、呼吸する時間」

 2022年7月から9月にかけて岐阜県美術館にて開催された福島諭の個展「記譜、そして、呼吸する時間」には、大きく分けると9つの作品群が展示されており、その展示は(1)「変容の対象」「patrinia yellow」「春、十五葉」の楽譜の展示、(2)佐藤慶次郎の作品の展示、(3)設置音楽「patrinia yellow」と「Twill The Light」などの視覚的な作品の展示、(4)設置音楽「春、十五葉」の展示という大きく4つに区分されるものと思われる。

 展示空間は出入り口付近が狭く、奥にまとまった空間のある「旗竿地」のような構造をしており、エントランスから展示空間に入ると、細い廊下のような空間にある左右の大きな展示ケースに楽譜が並べられている。右側の展示ケースにはやや大きめに出力された「変容の対象」の楽譜が、そして、左側の展示ケースには「patrinia yellow」と「春、十五葉」のミニアチュア?スコア、さらに解説動画の流れるディスプレイが展示されている。

 これらの楽譜は大きい展示ケースのなかに設置されているため、視力の弱い筆者は、とくに左側のミニアチュア?スコアになにが書かれているのかを読み取ることは困難であった。ただ、これは観覧者に楽譜を精読させることを目的としているわけではなく、導入部に「作曲家の思索の痕跡」としての楽譜をそれなりのボリュームで展示することによって、福島という作家のありかたを端的に示そうとしているように感じられた。

 廊下の続く右手に置かれた机のうえには、2009年から2020年までの12年分の「変容の対象」、すなわち「12×12の14作品のマトリクス(1月から12月の縦の12組曲、年度違いの同月の横の12作品)が組みあがった」※72結果としての製本された楽譜と、「変容の対象」の「シミュレーション音源の再生プログラム」※73をインストールしたコンピュータが設置されていた。ただ、たとえばこの作品の2020年の1年ぶんの再生を聴くには30分ほどの時間が必要であり、12年ぶんの再生のすべてを展示室で聴くことはあまり現実的ではない。しかし、楽譜を目で追いながら、部分的にでもそのシミュレーション再生を鑑賞することで、この息の長い創作の一端に触れることは可能となるだろう。

 机の向かい側には佐藤慶次郎の音の作品「エレクトロニック?ラーガ」と、それを試演している福島の動画が流れるモニター、そして、佐藤のオブジェ「花開」が展示されている。観覧者は「エレクトロニック?ラーガ」に手を触れることはできないため、この作品からどのような音がするかは動画から判断するしかないわけであるが、ほかの作品との音の干渉を避けるためか、その音量は控えめである。2022年8月28日に開催されるコンサート「エレクトロニック ラーガのための室内楽」において、タイトルからこの作品が中心的な役割を果たすであろうことは明らかであり、「エレクトロニック?ラーガ」の展示はコンサートの告知的な意味合いが強いようにも思われた。

 佐藤のオブジェ「花開」は1974年に製作された磁気の振動による作品であり、展覧会のリーフレットには「正方形の石膏の台座から12本の軸が花を模した形で展開し、各軸にはひとつずつ素子となるマグネットリングが備えられている。素子が不規則に上下運動を繰り返す様は植物が花開く際のエネルギーを表しているようにもみられる」※74と解説されている。先にも触れたように2013年に初演された福島の「patrinia yellow」は、「和音の完成を花の開花の隠喩として捉え」た作品であり、展示室の続く空間からはうっすらと「patrinia yellow」が聴こえてくる。

 両者に強い連関は感じられないものの、「花開」という作品は佐藤の言う「自然の提示」として、2人の作家によるその差異を体験すべきなのかもしれない。そして、作曲家としての福島と佐藤が共通するポイントは、「作曲から造形へ表現を拡張」したという点だけでなく、佐藤の言う「サウンド?ディスプレイ」という概念、すなわち「一般的に音楽と呼ばれるもの、そう呼ばれにくいもの、古いものも新しいものも(略)音の世界に関わってくるもの全部」※75を起点として読み解くことも重要なのではないかと考えている。

 廊下を抜けるとゆるく区切られた2つの広い空間が現われる。手前の空間には「patrinia yellow」が「設置音楽」として展示されており、その周囲には(1)遠藤龍とのコラボレーションによる「並列画像」が12点、(2)福島の「Twill The Light」が6点、(3)遠藤龍とのもう1つのコラボレーション作品を3分ほどの動画にしたもの、(4)原田和馬とのコラボレーションを10分ほどの動画にしたもの、という視覚的な作品が取り巻いている。そして、奥の空間には設置音楽による「春、十五葉」と、「Twill The Light」が1点だけ展示されていた。

 上記した視覚的な作品のなかで、筆者には原田とのコラボレーションがとくに印象深く感じられた。2017年に原田は「時間軸を持った写真表現」としての「Solidifying」という作品を発表しており、原田は「緩慢な時間感覚を基準に画面の変化速度を調整し、長大な尺にした動画を制作し、平面ディスプレイによって再生?展示することによって静止画でも映像ともいえない表現」※76が実現されたと述べている。先に触れたように福島の視覚的な作品も静止画に時間軸を与えようとする試みの1つではあるが、時間的な表現には優れた演奏家の集められたオーケストラのように、複数の人間それぞれが持つ固有な時間の合流のような瞬間が重要なのかもしれない。

3?2.福島諭の設置音楽

 2017年4月から5月にかけてはワタリウム美術館で、そして、2017年12月から2018年3月にかけてはNTTインターコミュニケーション?センターにおいて開催された坂本龍一の「設置音楽」の展覧会は、美術館という空間のなかに映像作品やオブジェなどをインストールして、その空間へ録音された音楽としての坂本のアルバムをスピーカーから流すというスタイルによるものであった。これはいわゆる「サウンド?インスタレーション」という形式であり、すでにさまざまな探究が、内外の多数のアーティストたちによって長年にわたって実践されてきたことは周知のとおりである。

 福島の展覧会のリーフレットには、坂本の設置音楽と「多くの一般的なサウンド?インスタレーションとの違いは、時間軸をはっきり持つ音楽の存在がまず先行してあり、その理想的な再生という視点に重きが置かれている点にあるだろう。今回、坂本龍一氏の許可を得た上で設置音楽という言葉を使用した」※77という注記がある。しかし、筆者にとって坂本の設置音楽と福島の設置音楽のあいだには、それなりのへだたりが存在するように感じられた。

 小杉武久は、録音された現実音を使用して作曲を行うミュジック?コンクレートという技法について、「具体的な音を抽象化して一つの音楽作品を作っていく。ただ、それがテープに記録されてしまうと、いくらリピートしてもいつも同じですよね。それは僕には耐えられなかったんです」※78と述べている。あたりまえのことではあるが、録音された音楽をどのようなかたちで再生したとしても、そこにリアルタイムのクリエイティビティの介在する余地はどうしても少なくなってしまう。

 高橋悠治はコンピュータ音楽について、「生楽器といっしょに演奏したものの録音は(略)生楽器だけが浮き出して、電子音は背景に退いているようにきこえる。生彩のない音はどうしても知覚の周辺にいってしまうのだろう」※79と指摘している。筆者のこれまでの経験と照らし合わせても、演奏者の肉体をともなって生で演奏される楽器の演奏と、スピーカーから流れるコンピュータによって生成されたものも含む電子的な音響を、ある空間のなかで混交させることは極めて困難な領域に属する音楽的な実践であるものと思われる。

 展覧会のリーフレットには設置音楽としての「patrinia yellow」について、「4つのスピーカーの中央に置かれる特殊スピーカーはクラリネット奏者を象徴しており、そこからは初演者である鈴木生子氏の演奏音が流れる」※80と記されている。また「春、十五葉」については、「6つのスピーカーの中央に置かれる特殊スピーカーは木管アンサンブルを象徴しており、そこからは本展のために録音された初演者メンバーによる演奏音が流れる」※81と記されている。そして「コンピューターはその演奏音をリアルタイムに録音/加工処理し周りの(略)スピーカーから出力していく」※82と説明されている。

 本来「patrinia yellow」や「春、十五葉」といった作品は、コンサート?ホールで聴かれるはずの作品である。しかし、今回の設置音楽としての上演では、美術館の展示空間というやや緊張感のある公的な空間のなかで、録音された演奏音が起点となり、コンピュータによって多少なりともそこにリアルタイム性が付与されることとなる。そして、演奏音と電子音というディメンションの異なる音響は、スピーカーという存在を介した一様な存在としてリアリゼーションされるわけである。このようにメディアの限界の間隙を縫うように組み上げられた福島の設置音楽は、筆者にとって楽曲の持つ構造をより集中して聴取することを可能とさせる貴重な体験として働きかけることとなった。

第3曲「III. IとII、そしてエレクトロニック ラーガのための」Mimizによる演奏(左:福島諭 右:飛谷謙介)

4.コンサート「エレクトロニック ラーガのための室内楽」

 2022年8月28日に「記譜、そして、呼吸する時間」展の関連イベントとして、コンサート「エレクトロニック ラーガのための室内楽」が開催された。全体としては、福島諭による新作「エレクトロニック ラーガの為の室内楽」の初演と、石川喜一(ピアノ調律師/美術家。佐藤慶次郎の作品の再製作なども手がける継承者でもある)の「エレクトロニック?ラーガ」についてのミニ?レクチャーから構成されていた。

 「エレクトロニック ラーガの為の室内楽」は3つの部分から構成されており、第1曲は「I. 尺八とコンピュータのための」である。演奏は福島麗秋(福島の父)の吹く尺八と福島のコンピュータによるもので、譜面台に乗せられた尺八のための楽譜が舞台には用意されていた。このことから第1曲は楽譜にもとづいた尺八の演奏が、コンピュータによってリアルタイムで処理されるスタイルの作品であったものと思われる。

 これまで触れてきたように、福島は濱地潤一との「変容の対象」や原田和馬との映像作品を始めとして、他者とのコラボレーションによる作品を発表し続けてきた。福島は2021年4月からIAMASの博士後期課程に在籍して「他者と共に行う新しい創作形態」※83についての研究を進めており、今回初演された「エレクトロニック ラーガの為の室内楽」という作品もその実践の一つであったものと推察される。

 第1曲の演奏後に福島は、これまで「自己と他者」を意識した創作に取り組んできているが、父による尺八の演奏には拍のとりかたなどに共通する部分があり、まったくの他人ではない存在による演奏として捉えているという意味の発言をしていた。すなわち、2015年以降の福島は父の演奏する尺八とのコラボレーションを活発化させているが、それは身近にいる演奏家ということだけではなく、遺伝子的にきわめて近い他者とのコラボレーションを試みていたというわけである。

 第2曲は「II. サクソフォンと電子音のための」と題した濱地とのデュオである。第1曲とは異なり、濱地は完全な即興によって前半はアルト?サキソフォンを、そして、後半はソプラノ?サキソフォンを演奏しており、福島も鍵盤型のインターフェイスとコンピュータを用いて即興的に「電子音」を演奏していたように見えた。演奏後に福島は、「変容の対象」のようにピアノとサキソフォンを用いるべきだったのかもしれないという意味の発言をしていたが、それは会場がピアノを設置することが困難な美術館の講堂であったという制約も影響していたのだろう。

 さきにも触れたように、高橋悠治は電子音のような「生彩のない音はどうしても知覚の周辺にいってしまう」※84と述べていた。しかし、少なくとも「エレクトロニック ラーガの為の室内楽」の第1曲と第2曲は、どのようなかたちであれスピーカーから発せられる音響が人間の「知覚の周辺」へと向かってしまうことは織り込み済みであるように感じられた。人間の息がその場で生み出す生楽器からの強い音は、視覚的にも聴衆の意識の中心とならざるを得ないものの、スピーカーからの音響が「知覚の周辺」に退いてしまう危険性を常に孕むからこそ、その音響は鮮烈に立ち現れる瞬間を手に入れることが可能となるのかもしれない。

 ここで石川喜一による「エレクトロニック?ラーガ」についてのミニ?レクチャーが挟まれていた。佐藤慶次郎は子供のころに柱時計を分解したり、着せかえ人形やお化け屋敷を作ったりしていて、石川は「エレクトロニック?ラーガ」にもそういった佐藤の純粋な遊び心が反映しているはずだという。さらに石川は佐藤の五線紙による作曲が音楽を構成する要素を徹底的に削る方向へと進み、その後は金属製のオブジェから発せられる偶発的な音響に関心を寄せつつ、「エレクトロニック?ラーガ」を始めとする電子回路の可能性に集中していったと解説しており、こうした佐藤のバイオグラフィを「音そのものへの探求」であると結論づけていた。

 福島と石川、そして、観客による「エレクトロニック?ラーガ」の操作方法についてのかんたんなデモンストレーションのあとで、「エレクトロニック ラーガの為の室内楽」の第3曲「III. IとII、そしてエレクトロニック ラーガのための」がMimizの演奏によって上演された。ただ、Mimizの鈴木悦久はプログラミングのみの参加で実際の演奏には参加しておらず、福島はコンピュータの操作を、そして、飛谷謙介は「エレクトロニック?ラーガ」とエレクトロニクスの演奏を担当していた。

 第3曲は30分弱の演奏であり、福島は一貫してコンピュータによる音響処理を行っていたものと思われる。また、飛谷は最初の5分ほどは「エレクトロニック?ラーガ」を、続く15分はエレクトロニクスを(飛谷の機器が配置された机のうえにはコンピュータも用意されていたが、飛谷はおもにミキサーを操作していたように見えた)、ふたたび5分ほど「エレクトロニック?ラーガ」を、そして、最後に数分ほどエレクトロニクスを演奏していた。

 今回のコンサートで使用された「エレクトロニック?ラーガ」は大型のものであるが、佐藤が最初に発表したのは手のひらに乗るような小型のものである。とくに小型の「エレクトロニック?ラーガ」は玩具のように弄って、とくに目的もなく音を楽しむには申し分のない装置であるが、他人が操作することによって生まれる音響を長時間「音楽」として聴くのは少なくとも筆者にとってなかなか困難である。すなわち「エレクトロニック?ラーガ」という装置は、自分自身の触覚と聴覚という感覚をパーソナルなレベルで接続したうえで、さらに拡張していくためのデバイスとして考えることもできる。

 筆者は1980年代にアメリカで販売された子供用の電子回路の玩具を所有しており、この玩具は配線を繋ぎ変えることによってさまざまな電子工作の基本を学習するためのものである。そのなかに「エレクトロニック?ラーガ」に類似した配線の例があり、手などの接触面積を変化させることで電子音が演奏できるその回路はそれほど複雑なものではない。佐藤の「エレクトロニック?ラーガ」よりもはるかに単純と思われるこの玩具の回路を使って、長時間にわたる豊かなバリエーションを得ようとすることはほとんど不可能である。

 今回のコンサートは「エレクトロニック ラーガの為の室内楽」と題されており、レクチャーも含めてイベント全体は1時間40分ほどの長さであったものの、上記したように「エレクトロニック?ラーガ」が福島の作品のなかで実際に演奏されたのは10分ほどである。やはり佐藤の「エレクトロニック?ラーガ」を使用したとしても、セルフ?スタディ的な要素を持つこの作品を主役の「楽器」として位置づけたうえで、「作曲」された作品として成立させることは難しかったものと思われる。

 第3曲のタイトルに含まれる「IとII」は、第1曲と第2曲で演奏された素材も使用されているという意味のようであり、飛谷による「エレクトロニック?ラーガ」の演奏やそのリアルタイムの音響処理を含めて、第3曲の主眼はコンピュータを取り入れた即興演奏を実現させることだったようである。こうした即興演奏のありかたはMimizのセッションと外形的には類似しているが、福島にとっての関心は「自己と他者」というポイントにあるわけで、「エレクトロニック?ラーガ」を楽器として用いるといった表層的なことよりも、家族という他者、長く活動をともにしてきた他者、そして、佐藤慶次郎という死者としての他者の存在を意識化することのほうがより重要だったのかもしれない。

 

※1 http://www.shimaf.com/unit_prof.html(2022年8月3日アクセス)

※2 https://archive.aec.at/prix/showmode/6778/(2022年8月3日アクセス)

※3 http://www.experimentalrooms.com/features/058.html(2022年8月3日アクセス)

※4 三輪眞弘「福島諭の音楽」CD『福島諭/室内楽 2011?2015』解説 G.F.G.S.(2016年9月)9頁

※5 三輪眞弘「福島諭の音楽」CD『福島諭/室内楽 2011?2015』解説 G.F.G.S.(2016年9月)9頁

※6 三輪眞弘「福島諭の音楽」CD『福島諭/室内楽 2011?2015』解説 G.F.G.S.(2016年9月)9頁

※7 http://www.experimentalrooms.com/features/058.html(2022年8月3日アクセス)

※8 CD?R『福島諭/Finishing Mirrors』解説(2007年4月)

※9 CD?R『福島諭/the several obbligatos of the sunbaked slash /』解説(2007年10月)

※10 CD?R『福島諭/おともなくうごくもの』解説(2008年3月)

※11 CD?R『福島諭/タタミ カサネ クミナオス』解説(2008年10月)

※12 CD?R『福島諭/タタミ カサネ クミナオス』解説(2008年10月)

※13 CD?R『福島諭/タタミ カサネ クミナオス』解説(2008年10月)

※14 http://www.experimentalrooms.com/features/058.html(2022年8月3日アクセス)

※15 http://www.experimentalrooms.com/features/058.html(2022年8月3日アクセス)

※16 http://www.experimentalrooms.com/features/058.html(2022年8月3日アクセス)

※17 http://www.shimaf.com/h/rules.html#hrl(2022年8月3日アクセス)

※18 http://www.shimaf.com/h/rules.html#hrl(2022年8月3日アクセス)

※19 http://www.shimaf.com/h/rules2.html#hrl2(2022年8月3日アクセス)

※20 福島諭『Amorphous Ring I』fish scores(2009年6月)2頁

※21 福島諭『Amorphous Ring I』fish scores(2009年6月)2頁

※22 福島諭『Amorphous Ring I』fish scores(2009年6月)帯

※23 三輪眞弘「福島諭の音楽」CD『福島諭/室内楽 2011?2015』解説 G.F.G.S.(2016年9月)10頁

※24 三輪眞弘「福島諭の音楽」CD『福島諭/室内楽 2011?2015』解説 G.F.G.S.(2016年9月)10頁

※25 CD?R『福島諭/Permutation of Time』解説(2011年2月)

※26 福島諭『RONDO for MI』fish scores(2010年5月)2頁

※27 CD?R『福島諭/Permutation of Time』解説(2011年2月)

※28 CD?R『福島諭/Amorphous Ring II』解説(2013年12月)2頁

※29 CD?R『濱地潤一/contempt』解説(2011年3月)2頁

※30 CD?R『濱地潤一/contempt』解説(2011年3月)10~11頁

※31 秋山邦晴「弧」レコード『武満徹の音楽』解説 日本ビクター(1966年11月)32頁

※32 近藤譲「コロナ 武満徹の周辺」『ユリイカ』7巻1号(1975年1月)82頁

※33 CD?R『濱地潤一/contempt』解説(2011年3月)11頁

※34 福島諭「楽曲解説」CD『福島諭/室内楽 2011?2015』解説 G.F.G.S.(2016年9月)4頁

※35 福島諭「楽曲解説」CD『福島諭/室内楽 2011?2015』解説 G.F.G.S.(2016年9月)4頁

※36 福島諭「楽曲解説」CD『福島諭/室内楽 2011?2015』解説 G.F.G.S.(2016年9月)4頁

※37 福島諭「楽曲解説」CD『福島諭/室内楽 2011?2015』解説 G.F.G.S.(2016年9月)6頁

※38 CD?R『濱地潤一、福島諭/録音された様式としての即興という概念が交換されうる対象としての機能』解説(2013年8月)3頁

※39 http://archive.j-mediaarts.jp/festival/2013/art/works/17aj_an_object_of_metamorphose/(2022年8月3日アクセス)

※40 CD?R『福島諭/patrinia yellow』解説(2014年8月)1頁

※41 福島諭「楽曲解説」CD『福島諭/室内楽 2011?2015』解説 G.F.G.S.(2016年9月)5頁

※42 福島諭「楽曲解説」CD『福島諭/室内楽 2011?2015』解説 G.F.G.S.(2016年9月)5頁

※43 http://www.shimaf.com/h/h17.html(2022年8月3日アクセス)

※44 CD?R『福島諭/季鏡』解説(2018年6月)2頁

※45 三輪眞弘「福島諭の音楽」CD『福島諭/室内楽 2011?2015』解説 G.F.G.S.(2016年9月)10頁

※46 https://www.ntticc.or.jp/ja/exhibitions/2017/sakamoto-ryuichi-with-takatani-shiro-installation-music-2-is-your-time/(2022年8月3日アクセス)

※47 http://www.shimaf.com/h/h17.html(2022年8月3日アクセス)

※48 展覧会『福島諭/記譜、そして、呼吸する時間』リーフレット(2022年7月)

※49 http://www.shimaf.com/h/h17.html(2022年8月3日アクセス)

※50 http://www.shimaf.com/h/h17.html(2022年8月3日アクセス)

※51 http://www.shimaf.com/photo/20180901_event.html(2022年8月3日アクセス)

※52 http://www.shimaf.com/photo/20201225_text.html(2022年8月3日アクセス)

※53 展覧会『福島諭/記譜、そして、呼吸する時間』リーフレット(2022年7月)

※54 展覧会『福島諭/記譜、そして、呼吸する時間』リーフレット(2022年7月)

※55 福島諭、三輪眞弘「他者と共に行う新しい創作形態の試み 『変容の対象』からの展開」『先端芸術音楽創作学会会報』14巻1号(2022年)36頁

※56 展覧会『福島諭/記譜、そして、呼吸する時間』リーフレット(2022年7月)

※57 湯浅譲二「実験工房コンサート」CD『実験工房の音楽』解説 フォンテック(1997年8月)16頁

※58 佐藤慶次郎「掲載楽譜解説」『音楽芸術』19巻4号(1961年4月)楽譜1頁

※59 演奏会『Concerto di Musiche Moderne』プログラム(1961年1月31日)10頁

※60 中嶋恒雄『禅の作曲家 佐藤慶次郎』東京堂出版(2017年4月)76頁

※61 演奏会『第6回 現代音楽祭』プログラム(1965年11月30日)12~13頁

※62 中嶋恒雄『禅の作曲家 佐藤慶次郎』東京堂出版(2017年4月)76頁

※63 日外アソシエーツ編『日本の作曲家』日外アソシエーツ(2008年6月)316頁

※64 谷川俊太郎『ものみな光る』青土社(1982年1月)226頁

※65 古川秀昭ほか編『「在る」ということの不思議 佐藤慶次郎とまど?みちお展』岐阜県美術館(1999年)92頁

※66 谷川俊太郎『ものみな光る』青土社(1982年1月)223頁

※67 谷川俊太郎『ものみな光る』青土社(1982年1月)223頁

※68 古川秀昭ほか編『「在る」ということの不思議 佐藤慶次郎とまど?みちお展』岐阜県美術館(1999年)92頁

※69 古川秀昭ほか編『「在る」ということの不思議 佐藤慶次郎とまど?みちお展』岐阜県美術館(1999年)92頁

※70 古川秀昭ほか編『「在る」ということの不思議 佐藤慶次郎とまど?みちお展』岐阜県美術館(1999年)92頁

※71 中嶋恒雄『禅の作曲家 佐藤慶次郎』東京堂出版(2017年4月)229頁

※72 http://www.shimaf.com/h/h20.html#h20(2022年8月3日アクセス)

※73 展覧会『福島諭/記譜、そして、呼吸する時間』リーフレット(2022年7月)

※74 展覧会『福島諭/記譜、そして、呼吸する時間』リーフレット(2022年7月)

※75 谷川俊太郎『ものみな光る』青土社(1982年1月)223頁

※76 http://kazumaharada.org/pdf/Solidifying_thesis.pdf(2022年8月3日アクセス)

※77 展覧会『福島諭/記譜、そして、呼吸する時間』リーフレット(2022年7月)

※78 川崎弘二ほか編『小杉武久 音楽のピクニック』芦屋市立美術博物館(2017年12月)202頁

※79 高橋悠治『音の静寂 静寂の音』平凡社(2004年11月)217頁

※80 展覧会『福島諭/記譜、そして、呼吸する時間』リーフレット(2022年7月)

※81 展覧会『福島諭/記譜、そして、呼吸する時間』リーフレット(2022年7月)

※82 展覧会『福島諭/記譜、そして、呼吸する時間』リーフレット(2022年7月)

※83 福島諭、三輪眞弘「他者と共に行う新しい創作形態の試み 『変容の対象』からの展開」『先端芸術音楽創作学会会報』14巻1号(2022年)30~37頁

※84 高橋悠治『音の静寂 静寂の音』平凡社(2004年11月)217頁