教員インタビュー:伊村靖子准教授(後編)
前編からの続きとなります。
デジタル?ファブリケーションの状況変化と可能性
- 先ほど話題に出た岐阜おおがきビエンナーレでは、2019年に「メディア技術がもたらす公共圏」というテーマでディレクターを務められました。このテーマ設定は、2011年に共同企画された「共創のかたち~デジタルファブリケーション時代の創造力」展(京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA)での問題意識を引き継ぐものだと思います。まず、「共創のかたち」展の企画趣旨についてお聞きします。
2011年当時は、3Dプリンタやレーザーカッターのコストが下がるなど、それまで一部の人しか使えなかったデジタル?ファブリケーション技術が汎用化していくタイミングでした。この展覧会では、アート、デザイン、工学の分野からの参加者を交え、新しいデジタル?ファブリケーションの環境をどう活用できるかをテーマにしました。当時のギャラリー@KCUA学芸員でデザイン研究者の森山貴之さんと一緒に企画したので、デザイン史の枠組みの中でデジタル?ファブリケーションを考えました。共創の文化は、DIY文化やハーレーダビッドソンのチョッパースタイルなどに代表される、ユーザーの改造文化を起源とした時、今後どんな可能性や課題があるのかを議論したいというのが企画趣旨です。
展示の冒頭では、ユーザーによるカスタマイズ文化をメーカーがデザインに取り入れた事例として、ハーレーダビッドソンのFXシリーズを展示しました。一方、2010年代以降の問題として、コンピュータの汎用化によって可能になるデザインを念頭に置き、デザインエンジニア/ソーシャルエンジニアの田中浩也さんをお呼びしました。ちょうど田中さんが国内初のファブラボを鎌倉で始め、市民に開くことを検討しているタイミングでした。著作権の問題を含め、デジタル?ファブリケーションが今後普及していくときに、どのような問題や可能性があるのかを考える展示にしました。例として、リートフェルトの《赤と青の椅子》(1917)の「改変」のプランがあります。リートフェルトの椅子自体は図面が公開されていて、著作権も切れているので、市販の木材で自作しました。改変の提案として、子ども用のサイズや、2つつなげてベンチにしたものをつくりました。こうした二次創作をポジティヴに捉えていく発想が、今後、デジタルのものづくりを変えていく可能性があることを分かりやすく示すモデルとして発表しました。
- その後の8年間で、デジタル?ファブリケーションを取り巻く環境や作り手の意識にはどのような変化がありましたか?また、「岐阜おおがきビエンナーレ2019」にどのように反映されているでしょうか?
今は、学生たちを見ていても、ファブラボのようなファブ施設が制作環境として浸透しているという印象を持っています。だとしたら、2011年には想像できなかったようなデジタル?ファブリケーションの使い方を考えていけるんじゃないか。「岐阜おおがきビエンナーレ2019」の展示は、学内の2つのプロジェクトの事業と一緒につくりました。そのひとつが、私も参加している「Action Design Research Project」です。デジタル?ファブリケーションを使って、地元の企業と連携しながら具体的なプロダクトデザインの事例につなげていく実践です。
- このプロジェクトは、「『Action Design Research』という新たな研究手法の確立を目指す」とあります。具体的に、どのような研究手法や目標が設定されているのですか?
特徴のひとつは、「デザインリサーチ」の手法として、プロトタイピングを軸に据えている点です。プロトタイピングは製品になる一歩手前と見なされることが多いですが、そこにいろんな立場の人が関わって、実際にものをつくりながらディスカッションしてデザインの可能性を探っていくプロセスを重視しています。
もうひとつの「アクションリサーチ」の部分に、私は関わっています。デジタル?ファブリケーションの使い方がまだあまり明文化されていない状況なので、地元の企業や作り手にインタビューしてリサーチしていくものです。
両方に共通するのが、理論としてではなくて、実践の中から研究手法や研究資料をつくっていく点に軸足を置いていることです。実際に、藤工芸株式会社という木工企業や、シルクスクリーンやデジタル印刷を専門とする堀江織物株式会社と共同研究をしています。彼らとともに、デジタル?ファブリケーションの活用方法や、そこから生み出される新しい設計について考えていくプロジェクトです。
個人のものづくりから、より社会化された領域へ
- デジタル?ファブリケーションをめぐって、デザインと批評性の関係について、さらにお聞きします。多様な立場の意見をフィードバック的に取り込むプロセスや、データをオープンソースにする、さらに先ほどのリートフェルトの椅子のようにユーザー自身がニーズや使い方に合わせて改良を加えていくことも可能で、既存の商品流通のプロセスではない、民主的な側面もあります。そこに批評性も宿るのではと思うのですが、こうした点について考えをお聞かせください。
2011年からの大きな変化の分かりやすい事例として、「岐阜おおがきビエンナーレ2019」のシンポジウムに登壇していただいた、秋吉浩気さんがいます。デジタル?ファブリケーションを使って建築にアプローチしている方で、彼自身は「メタ?アーキテクト」と名乗っています。資金をクラウドファンディングで集めたり、地産地消を意識した建築や、物流を直接変えるようなシステムの提案を多角的にされています。2011年の時点ではまだ、個人やアマチュアのものづくりに留まっていたデジタル?ファブリケーションの活用が、より社会化し、建築家像を更新するというか、批評的に提案する可能性につながってきていると思います。
このシンポジウムは、「ソーシャル?ファブリケーションとメディア技術」というテーマの下、個人によるものづくりをより社会化していく可能性をどう見出せるかに企画意図がありました。秋吉さんは、コンピュータ制御の木工加工機「ShopBot」を日本各地に導入しながら、市民と協働した広場のベンチづくりや、クラウドファンディングで建築を立てるプロジェクトを行なっています。また、地元の木材を使って木材の流通を考えたり、大工さんなどものづくりの知見を持った人たちとデジタル?ファブリケーションの技術を掛け合わせることで、新しい工法を生み出しています。そうした可能性を社会的なインパクトとともに示してくれる事例だと思います。
- ShopBotはIAMASにも導入されていますが、操作するには、練習や技術がいるのですか?
やはり、データをつくることと、ShopBot自体の特性に慣れる必要があると、私も実際に関わる中で分かりました。オープンソースが謳われた当初は「簡単になる」というイメージが持たれていましたが、次の可能性として、地元の企業と連携するなど、今までの技術と掛け合わせていく。ShopBotは汎用性が高いのですが、ということは精度はそこまで高くない機械なんです。ShopBotから考えるデザインと既存の技術や工法との掛け合わせによって、新しいデザインが生み出されるんじゃないかと考えています。
今回のビエンナーレでは、「制作環境」を大きなテーマにしました。その理由のひとつは、今お話しした「Action Design Research」と「デジタル?ファブリケーション」で、もうひとつはAIをテーマにしたプロジェクト「Archival Archetyping」があります。自動運転の車が導入されるなど、AI技術が私たちの生活に深く関わり始めていますが、それに対する批評性を持つことが、作品の条件であると考えています。そうした批評性を持つためのプラットフォームをどうつくれるかという問題意識が、ビエンナーレのテーマ設定にありました。具体的には、ジョルジョ?モランディの静物画の画像を機械学習したモデルを使った体験型の作品や、「あいちトリエンナーレ2019」での「表現の不自由展?その後」の鑑賞者へのインタビュー調査をAIで分析したデータなどを展示しました。
歴史を考えることを通して、現在を相対化する視点を持つ
- 最後に、具体的な教育内容についてお伺いします。美術?制作系の大学で、美術史や理論を教えることの重要性について、どう考えておられますか?
先ほど話したように、デジタル?ファブリケーションひとつとっても、2011年と現在では、使い方や認識が大きく変化したことを考えると、学生にとって歴史認識を持つことの難しさを実感しています。だからこそ、現在の技術を考える際、それを相対化するための価値観を持つために、どう歴史を考えるかがすごく重要になってきます。ですので、美術史という学問を教える立場というよりも、現在の問題に引きつけて、どう過去の作品や事例を再編できるのかを意識して授業を組み立てています。
IAMASの特徴として、複数の教員が一緒にひとつの授業を受け持ちます。昨年(2019)度は、「デザイン特論A」と、メディア?アートを教える「総合学C」という2つの授業に関わりました。
「デザイン特論A」では、私以外の教員が、一人はグラフィックデザインを専門とする瀬川晃先生、もう一人はプロダクトデザインやメディア?アートを実践的に研究している赤羽亨先生なので、私は歴史的な枠組みを受け持ちました。
例えば、「岐阜おおがきビエンナーレ2019」でも取り上げた、ウィリアム?モリスを中心としたアーツ?アンド?クラフツ運動のようなデザイン運動を「公共圏」と見なし、市民生活のためのデザインとは何かという問題意識から、アートとデザインの接点を考えていく。他にも、民藝運動、60年代美術における「設計(デザイン)」の観点など、歴史の中で切断面になるようなデザイナーやアーティストを取り上げました。授業の最後に、「時代を変えたデザインとは何か」を学生に発表してもらってディスカッションしました。彼らの関心と、歴史的な観点を結び付けることが狙いです。
「総合学C」では、特に20世紀後半の作品について、3名の教員がそれぞれ、工学、メディア論、アートという3つの観点から論じました。例えば、インターネット?アートの回では、90年代に登場した様々な実践を今振り返ることが難しいことを踏まえて、当時インターネットの何が論点だったのか、また日常生活とインフラの接点がどういう環境で、その中からどのような作品が生み出されたかを考えてもらいました。
- インターネット?アートの場合、美術館にモノとして収蔵されることが難しいので、もう消えてしまった作品は見られないという難しさがありますね。保存の問題も関わってくると思います。
ニュー?ミュージアムが2016年から、インターネット?アートの画面のコレクションを始めているように、振り返られる時期が来ています。そのとき、今私たちがインターネットを使うことと、インターネット?アートで考えられていた批評性がどう重なるのかを考える機会にしたいと思います。
- 授業を通して、学生に伝えたいことは?
歴史を教養として身につけるのではなく、今、自分が取り組んでいることを相対化するための手段として過去を参照してほしいと思っています。それは、歴史という軸でなくてもいい。自分がやっていることを知るためには、ある程度の距離が必要だということを、いちばん伝えたいです。
― IAMASに来る学生には、どういうモチベーションを期待していますか?
歴史観を持つのは難しいと思いますが、1年生で授業を受けた上で、2年生で修士論文を書いたり、自分の作品をまとめていく過程で、少しずつ理解を深めてくれればと思います。「作品とは何か」を考えるとき、やはり主観が発揮されます。一方で、社会に伝えるためには、主観を相対化するための視点が必要です。2年という短い時間ですが、その両方の軸を伸ばしていってほしいと思います。
メディア環境の現在を批評的に考える研究を
― 具体的に、来てほしい学生像はありますか?
やはり、現代美術の歴史を踏まえた上で、今のメディア環境に対して批評性を持てる人にぜひ来てほしいと思っています。かつて、現代美術が大学の研究分野とみなされていなかった時期を知っているからこそ、最近の研究状況に閉塞感を感じています。アカデミックな研究分野として、「過去の、評価の定まった、60年代の作家を研究する」という流れにシフトしてきているので。そうではなく、現在の表現に関心を持ち、それに対して批評性を持って研究したいという学生に来てほしいです。例えば、去年、『美術手帖』の評論募集にインターネット?ミームについての批評が載りました※5。そのように、まだ「表現」と言えるのか分からないけれど、何らかの主張や批評性があるものに対して、積極的にその価値を論じていく人が来てくれたら嬉しいです。そういう研究の受け皿がまだどこにもないと思うので。
― メディア?アートの歴史的変遷の中で制作を続けてこられた教員が身近にいる環境も、IAMASのひとつの強みだと思います。
そうだと思います。歴史というものは、客観的な歴史がどこかに存在しているわけではなくて、再編されるタイミングが常にあります。60年代、70年代の現代美術が歴史化されていくのと同様に、近い過去である90年代や2000年代についても、当事者には見えなかった環境の変化や、表現が持っている社会的な機能の変化が、そろそろ相対化できるんじゃないか。そういう期待も込めて、メディア?アート研究が今後もっと進むといいなと思います。
伊村靖子 / 准教授
アートとデザインの歴史的区分を再考することにより、芸術と商業活動、産業との横断的な表現領域が研究対象。2013年京都市立芸術大学博士号(芸術学)取得。博士学位論文「1960年代の美術批評──東野芳明の言説を中心に」。
※5 第16回芸術評論募集【次席】ウールズィー?ジェレミー「インターネット民芸の盛衰史」
インタビュアー?編集:高嶋慈
撮影:八嶋有司